中山久蔵

文政11年(1828年)~大正8年(1919年) 
大阪府生まれ。

「寒すぎる北海道では稲は作れない」という外国人顧問団の提言で、屯田兵には稲作禁制が布かれ、ジャガイモや小麦作りを奨励していました。
この禁制に挑んだ一般人で初めて米作りを成功させた人です。

現在、日本の稲作北限地は、日本海の遠別町ですが、温暖化とともに稚内でもコメが作られる日が来るかもしれません。

生い立ちと経歴

1828年、大阪で武士の松村三右衛門の次男として生まれます。
17歳で家を出て、仕官を志して大阪と江戸の間を流浪していました。
しかし、仕官の道は険しく北に向かいます。
ようやく25歳の時に仙台藩士片倉英馬の下僕として仕えることになりました。

仙台藩陣屋跡

この頃の北海道は、幕府直轄でロシアなどの外国船がせまる事態となっていました。幕府は仙台藩や秋田藩に、蝦夷地警備として白老から知床までを管轄させていました。
仙台藩は白老に陣屋を設置。久蔵は15年間、白老と仙台を行き来することになります。

40歳。明治維新により廃藩置県が施行され職を失うことになりました。
明治2年、再出発の決意で厳寒の白老に向かいます。苫小牧で開墾に着手しますが、土壌が開墾に向かないと判断、明治4年現在の島松沢(北広島)に移ります。
小川が流れ開墾に向いていましたが、建てた小屋は屋根もありません。鹿・ウサギなどを捕らえて食べ、また野草や木の実を採って飢えを凌ぎます。
島松に入って2年、自活できる見通しが付いたころに転機が訪れます。
開拓使は函館と札幌を結ぶ本道の開削が始まり、札幌から室蘭の道路(室蘭街道)がつくられ、久蔵の建て直した家が「駅逓」となりました。
島松はわずか2年で北海道開発上、重要な地となってきたのです。

明治6年が稲作記念日
明治6年、北海道の稲作にとって記念すべき年となります。
45歳の時に、大野村(現・北斗市)へ行き、寒さに強い「赤毛種」の種籾を分けてもらい水稲の試作を始めました。

水田の跡

水田の水温を一定に保つために風呂樽を取り寄せ、大きな石を焼き、それを風呂桶に入れ湯を沸かし、昼夜を問わず風呂の湯を水田に運び、遂に発芽に成功。
その秋には反当り345kgを収穫し、米作りの夜明けとなりました。
しかし、収穫量は簡単には上がらず安定は中々得られません。心配した札幌農学校の教授は「やはり水田をやめて、畑作をやってみては」と指導します。しかし、久蔵は稲作を続けます。

明治12年、52歳。
稲作をはじめて6年目。開拓使に対して種もみ150キログラムを献上しました。久蔵が育てた赤毛種の種籾は空知や上川の農家に無償で配布され、ここから全道に米作りが拡がります。「島松の久蔵」「稲づくりの久蔵」として知られることとなりました。

開拓使長官黒田清隆は「あなたは島松の山林に開墾の鍬を入れたのだから、山の中の人という意味で、中山と名乗りなさい」。
この時から久蔵は松村から中山久蔵となり、「赤毛」の種もみも「中山種」となりました。

旧島松駅逓所

クラークと中山の碑

56歳の時、自宅を改造し本格的な島松駅逓所の経営を始めます。
この駅逓は、北海道に残る最古の建物で北広島市が保存しています。
島松川の麓にあり、川を渡ると恵庭市になります。

札幌農学校の一期生が、クラーク博士を見送りに来て別れに「ホーイズ・ビー・アンビシャス」と語った記念の場所としてポールも建てられています。
クラーク博士は「寒冷地では稲作は無理」と言っていたので、中山久蔵とクラーク博士の記念碑が並んでいるのもめぐりあわせといえます。
開拓期に重要な役割を果たした久蔵は、1919年(大正8年)91歳で亡くなりました。