三橋美智也

本名 北沢美智也(演歌歌手)
昭和5年11月10日―平成8年1月8日没

上磯郡上磯町峨朗(現北斗市)生まれ

 

 

没後20年記念と同時に北海道新幹線「新函館北斗駅」駅前に、三橋美智也「生誕の碑」が建立されました。
しかし、生誕が上磯であることと、若い人たちには歌手であったことすら知らないでしょう。細川たかし、石川さゆりの師匠であり、北島三郎は高校を江差線で上磯駅を通り函館に通いますが、車中で口ずさみ流し時代最も歌ったのが三橋の歌でした。

最初の師匠は母親

美智也の父・三橋亀蔵は、上磯町のセメント会社(今もあります)で働く現場監督でしたが、満三歳の時に落盤事故で亡くなり、母は隣町当別にある男爵イモ農場に住み込みで働くうちに年下の金谷五郎と再婚します。
5歳になった美智也に、母は「一芸を持つ」ことで生活に困らないようにと民謡を教え始めます。間もなく父は国鉄職員になり、函館保線区転勤で一家は函館に引っ越すことになりました。

「江差追分」天才少年10歳 三橋美智也

母の特訓は並大抵のものではなく、小学校に入る前には民謡大会で初舞台を踏み「江差追分」を歌い、投げ銭で舞台が真っ白になりました。

母も芸名金谷五月で「松前三下り」を歌い聴衆を沸かせます。
昭和14年、9歳で「北海道素人民謡コンクール」で優勝し、民謡界に天才少年が現れると騒がれ、一座の旅回りで忙しくなります。

 

津軽三味線の師匠は白川軍八郎

13歳の時に津軽三味線の名手白川運八郎の弟子になります。
運八郎とは、仁太坊に8歳で弟子入りし、小学6年には師匠と並ぶ腕前になった人物です。仁太坊(にたぼう)は、五所川原市の生まれ。失明し門付けとなり津軽三味線の元祖。
仁太坊には5人の直系の弟子がおり、最初の弟子が喜之坊、二番目が長作坊(長作坊の弟子には後に有名になる高橋竹山)。三番目が出崎の坊、四番目が嘉瀬の桃、運八郎は五番目の弟子でした。
盲目の人は昔からの風習で越後から津軽で瞽女(ごぜ)になり、三味線を弾きながら民謡を歌います。美智也はそんな運八郎のもとで三味線奏者になっていきます。
津軽三味線は仁太坊~白川運八郎~三橋美智也と系譜は続き、美智也は運八郎が編み出した「一に仰天、二に音澄み、三にしんみり」の奥義を仕込まれ上達をしていきます。

「津軽三味線の急速調の弾き方は、門付けして歩く流れ者が、寒い時、湯治場で一杯機嫌の人たちに、がむしゃらに三味線を弾きまくって金を取るという生活問題が影響したものだと思います。一瞬にして客をじゃわめかせなければなりません」美智也の談話から

昭和20年、美智也14歳で小学校を卒業し、国鉄木古内駅保線区の日雇い作業員になります。
日雇いの他に、旅回りの巡業を行っており一座の座長を務めていました。
渡島支庁から七飯の老人ホーム慰問を頼まれます。
鉄道が事故で五稜郭駅から興行地まで歩くことになるのですが、雪で途中の桔梗あたりの峠で猛烈な吹雪に襲われ一寸先も見えなくなります。一座は母を含めて7名。旅芸人の野垂れ死になど、昔は珍しく見なかった時代でした。

一座の興行は北海道だけでなく、東北地方にも出向いておりました。秋田の横手興行の時に、街の映画館で見たシーンで東京行きを決意します。昭和25年19歳の時でした。

夢を求めて東京へ

上京して寿司屋の見習いなど転々とした後に、民謡温泉「東京園」にボイラーマンとして就職します。この温泉は、東横線綱島駅前にあり従業員も20人ほどで繁盛していました。湧きだす温泉の温度が低いため適度に沸かす必要がありました。給料は4千円と安いのですが、美智也は広間を利用して民謡教室を始めます。月謝300円、すぐに50人の弟子が集まり月に1万5千円もの収入になります。

この東京園の支配人が面倒見のよい人で、後に養子に入るので姓が北沢になります。昭和27年21歳の時に東中野にある明大付属中野高校に入学します。
同級生は15歳の少年たち。2時間かかっての通学のためボイラーの仕事は辞めて、民謡と学業に力を入れることになります。高校一年の秋、NHK邦楽オーディションに合格し、「民謡をたずねて」の番組に出演が決まります。

昭和28年、民謡の弟子が「江差追分」のレコーディングで三味線伴奏のためキングのスタジオに入りました。弟子の調子が悪く、見かねた美智也が一節を歌ってみせます。歌い終わるか終わらないうちに、立ち合っていた掛川(ディレクター)が「君、歌もいいじゃないか。こりゃ絶対いける」となり、同じ年にデビュー曲として「新相馬節」の「酒の苦さよ」を吹き込みます。このころのレコードはまだSP盤と呼ばれるもので、蓄音機で再生をするものでした。

「おんな船頭唄」が大ヒット

昭和30年、高校の卒業試験のころに「おんな船頭唄」を吹き込みます。
このレコードはB面で、先輩や二葉百合子の浪花節挿入歌に使われていました。誰も「おんな船頭唄」が売れると思っていなかったのです。
ところが、30数万枚の大ヒットとなります。続いて、第二弾が「ご機嫌さんよ達者かね」は80万枚、作曲は船村徹でした。
次に船村が作曲したのが「あの娘が泣いてる波止場」180万枚。
とうとう映画化され、宝田明との共演となり、にわかに過密スケジュールとなります。

昭和31年25歳には年間レコード吹き込み25曲。第七回NHK紅白歌合戦初出場で「哀愁列車」を歌い、以後10年間連続となります。
「ほれてほれて、ほれていながら」と繰り返しが響くこの歌は、集団就職など農村から都会に出て行く人々の惜別や郷愁をうたい上げたものです。
昭和34年「古城」。戦前の名曲が「荒城の月」ならば、戦後は「古城」がその一つに選ばれるでしょう。戦国武将・上杉謙信が戦の陣中で詠んだ「九月十三夜」が、この曲の基になっています。

一億枚のプレス

昭和58年は歌手生活30周年の記念すべき年でした。
この年の「越後絶唱」でレコードプレスが一億枚を達成します。一億枚とは日本人が一人一枚、ミリオンセラーが百回の計算になります。
百枚以上のヒット曲は歌謡曲だけで18曲あり、それまでに発売した420種のシングルレコードに、190種のLPレコードの売上を計算するとこの記録になります。昭和末期の音楽の聴き方は、まだCDや携帯がなく、レコードと音楽テープの普及だけでした。これは、美智也が歌謡曲だけでなく民謡においても12曲の百万枚を記録しており、合わせると30曲がミリオンセラーで総売り上げの57%を占めていました。
晩年はさまざまな不幸に見舞われましたが、民謡、歌謡曲、三味線によって戦後半世紀に渡って芸能界をリードしてきました。