三岸好太郎 (みぎし こうたろう)

1903年(明治36)-1934年(昭和9) 享年31歳

戦前のモダニズムを代表する洋画家。子母沢寛(座頭市の作家)は異父兄。
同じ洋画家の妻・三岸節子(旧姓吉田)は84歳大磯町のアトリエで亡くなった。

三岸好太郎は、明治36年にススキノの南7条西4丁目(現在の豊川稲荷札幌別院)で生まれました。豊川稲荷の入口に生誕碑が建っています。

碑文の末尾に
「厚田村で生まれた時代小説家の子母沢寛(明24~昭43)は異父兄弟にあたり、私立北海中学に学ぶなど札幌とも縁が深い」とあります。

子母沢は小樽商業学校から北海中学に転入したのは明治41年の夏、2年の2学期からでした。実母の家、ついで祖父と住んだ中島公園近くの家から通学し、明治44年3月に卒業。
その後の大正4年ころ札幌木材㈱に勤め、この時期に大川タマと結婚して北9西8に新世帯を持ちました。この異父兄弟である、子母沢寛が三岸好太郎の面倒を見ることになります。

三岸の父は橘巌松、母は三岸イシ。父は旧加賀藩前田に仕え御殿医の家に生まれるも、医学修業中に吉原遊郭通いで身を崩し石狩に流れてきて、子母沢の祖父梅谷十次郎の営む料理店で働いていました。十次郎は結婚を許さなかったため、駈け落ちして札幌に出ます。そのためイシが産んだ最初の子(子母沢)は祖父が育てることとなります。
(写真は、石狩市厚田区の道の駅で展示されている三岸好太郎解説)

父・橘巌松は当時すすきので1、2を争う遊廓の番頭を勤めており家計は裕福でした。勉強ができた好太郎は、大正4年、12歳の時に名門札幌一中(現在の南高)に入学。
しかし、父は翌年に胸を患って亡くなりました。
母は、父の勤めていた遊廓の女中頭として住み込むことになり、好太郎はひとり下宿生活を余儀なくされ、結局札幌で所帯を持っていた異父兄・梅谷松太郎(子母澤寛)に育てられることになります。環境が変わり勉強にも集中できず、成績も下降して落第、更に素行の悪さで停学になることもありました。

読書好きの好太郎は、北大構内に遊びに行きゴーリキーの短編集などを読み物思いにふけりました。このころから学校の美術グループで絵を描き始め、美術教師の林竹治郎と出会います。林は北海道美術の黎明期に多くの逸材を送り出した画家でした。好太郎にとって林は生涯を通して唯一の師となっていきます。

卒業と同時に好太郎は、画家として立つ決意を固めます。東京に旅立ったのは大正10年、18歳の春でした。
東京での生活は、新聞配達、屋台のそば売り、郵便局の臨時雇いなどで日銭を稼ぎ、休日となれば写生にでかけていました。二年後の大正12年、20歳の時、春陽展という大きな展覧会で、応募作2500点中、50倍という厳選のなかで入選し、一躍画壇の注目を集めることになります。
その作品が「檸檬持てる少女」(左の絵)でした。この作品はキャンバスが買えず、安く手に入るカルトンという素材に描かれたものです。新聞も好意的に「米の配達をしながら絵を勉強する青年」と報道しました。翌年の大正13年、第2回春陽展に『兄及ビ彼ノ長女』などを出品、春陽会賞を主席で受賞。
父が亡くなってから10年が過ぎ、札幌から母と妹を呼び寄せ、念願だった家族一緒の生活を始めました。また、22歳の時に女子美術学校を首席で卒業した吉田節子と結婚し、長女陽子も生まれ、以前にも増して創作活動に取り掛かりました。

上京して5年、美術界にデビューした三岸好太郎は、大正15年、新たな創作活動のために、憧れだった中国旅行に出発します。上海を中心に、蘇州、杭州などを訪ね刺激を受けます。中国4千年の歴史を持つ上海で、フランスやイギリスの文化が入り混じった雰囲気は、好奇心を満足させました。特に、華やかなサーカスの中で、人気のピエロの存在は、当時日本では知られておらず好太郎を圧倒しました。これまでの日本的絵画にない、新しい世界をつくりあげるべく、好太郎の挑戦が始まりました。帰国後、「少年道化」「マリオネット」「面の男」とピエロをモチーフにした作品を生み出していきます。低迷していた日本美術界を再び活気づかせました。

大正末期から昭和初期は人々の暮らしが大きく変わりました。足踏みミシン、洗濯機などの便利な生活用具が普及し、交通の発展で人と荷物の移動が容易になりました。新聞、ラジオ、映画などマスコミの発達は洋風化を促進させます。大正12年の関東大震災以降、東京は目覚ましい復興をとげ地下鉄が開通、銀座はデパートが建ち並びます。

しかし、好太郎は故郷札幌への思いが次第に強くなっていきました。札幌をたびたび訪れ、講演や個展を開催しました。そうして、節子夫人を案内したのは、中学時代いつも一人で過ごした北大の芝生と農場でした。昭和8年、好太郎30歳。作風を更に変化させます。人生の本質を探し始めます。展覧会では「花」「オーケストラ」など5点の作品を出品します。いずれも絵具が生乾きのうちに、釘やペインティングナイフで削ぎ落とすという大胆な手法を用います。新しいものを見つけ出す作業でした。

昭和9年、新しいアトリエの建設を計画します。そのアトリエが完成間近の昭和9年7月、好太郎は突然この世を去ってしまいました。関西旅行の帰路立ち寄った名古屋で、胃潰瘍の吐血で倒れ、心臓発作を併発し、誰にも看取られず、ひとり亡くなってゆきました。アトリエの完成を見ず享年31歳でした。

昭和41年、節子夫人(左の写真)によって寄贈された三岸好太郎の作品220点をもとに、初の北海道立美術館(三岸好太郎記念室)が開館しました。この美術館は、知事公館の敷地内に建てられています。