中学時代のスタルヒン

1916(大正5)年5月1日~1957(昭和32)年1月12日

日本プロ野球初の外国人選手。
沢村栄治と並ぶ大投手。

旭川市にあるスタルヒン球場は彼の名前を付けたものです。

 

 

 

生い立ち

1916年帝政時代にロマノフ王朝の将校を父とする一人息子として生まれます。陸軍大佐ですから広い土地を与えられ裕福な暮らしをしていました。
ところが翌年ロシア革命が起き300年続いたロシア政府は終わりを迎えました。
革命政府(共産主義)から迫害されることとなった一家は、日本の支配下であった満州のハルビンに逃げ延びます。

1925年(大正14年)日本に亡命。これには条件がありました。
「日本で暮らす外国人は、生活費として一人につき1500円を持っていること」サラリーマンの給料が45円という時代、3人分の4500円は大金でした。
両親は息子のために命懸けでもちだした宝石を売り入国ができました。

スタルヒンは9歳で旭川にやって来ます。
3年遅れで日章尋常小学校に入学したある日、一緒に遊んでいた上級生に丸い球を手渡されます。その日以来、野球の魅力にとりつかれました。体が大きく、体力もあったので投げる球は大人も打てないほどの剛速球でした。

旭川中学にスカウト

13歳の時、旭川中学(現在の東校)の野球部にスカウトされたスタルヒンは、一年生でいきなりエースに抜擢。昭和7年、旭川に市営球場ができ、北海道中学野球大会の会場となりました。
旭川中学も出場し準々決勝で敗れますが、スタルヒンは旭川市民のヒーローとなります。

父親が実刑8年

翌年思いがけない事件が起きます。父親が自分の経営する喫茶店で働いていたロシア人女性を、革命政府のスパイではないかと疑い、口論の末、刺し殺してしまいました。実刑8年、母親とスタルヒンは生活が苦しくなりました。
野球部の仲間は小遣いを出し合い、毎月7円50銭の授業料を払うことにしたのです。スタルヒンが彼らの思いやりにこたえるには投手として北海道中学大会で優勝し、甲子園の土を踏むことでした。

読売巨人軍にスカウト

スタルヒンの素質に惚れこんだのが、当時の読売巨人軍監督市岡忠男、更に、プロ野球生みの親である鈴木惣太郎でした。
3年前の昭和9年に日本で初めて日米野球大会がありました。日本は、全日本軍をつくり、ベーブルースやゲーリックなどの大リーグの一流選手と試合を行いました。
第二回大会に向けて、読売新聞は日本で初めてのプロ球団を作ることにし、読売巨人軍が誕生したのです。その監督からスタルヒンはスカウトされました。
しかし、彼は仲間を裏切るわけにはいかないと断固として断り続けました。
球団は「いうことを聞かなければ国外追放になるぞ」と切り札を出し、スタルヒンは啼きながら東京に向かいました。

長女ナタージャとのショット

巨人軍入団後、第二回日米野球大会で8回の裏に登板し、剛速球でベーブルースらを震えあがらせ鮮烈なデビューを飾りました。
当時スタルヒンのライバルは、巨人軍エース沢村栄治でした。その沢村でさえ、並んで練習するのを嫌がりました。投げればどちらが早いかはっきりわかるからです。しかし、沢村は軍隊に駆り出され、戦地で命を落とし、沢村亡き後の巨人の大黒柱となったのはスタルヒンでした。

昭和14年、全日本野球選手権大会では、春リーグで14勝3敗、秋には19勝2敗の成績をあげ、防御率と勝率の2部門で最優秀投手になりました。これは、巨人の試合で3分の2を投げたことになります。
更に翌年(15年)にも55試合に登板し、41完投、38勝12敗の成績を挙げ、18連勝の記録を作り2年連続のMVPとなったのです。

しかし、第二次世界大戦がはじまると、特高警察や憲兵から圧力がかかります。テレビのない時代、スタルヒンを世間では知られておらず、外国人というだけで警察に連れて行かれ、後を付けられます。更に、スタルヒンを当て字で「須田博」という名前を付けされました。
昭和30年9月、39歳の時スタルヒンは、体力の衰えを乗り越えて日本プロ野球初の300勝を達成しました。これは当時アメリカでも12人しか達成していない大記録でした。その年に、生涯成績303勝、通算完封83を残してユニフォームを脱ぎました。

大破したスタルヒンの車

引退の2年後、昭和32年、スタルヒンは交通事故で亡くなります。

スピードの出し過ぎで、止まっていた電車に追突したのです。
それは、東京で行われた旭川中学の同窓会に行く途中でした。

その3年後、野球殿堂入りしました。

 

スタルヒン球場

昭和58年(1982年)の秋に旭川に市営球場が老朽化で建て替えられました。
この市民球場の名前を付けるにあたって、市民が親しみやすい名前としてビクトル・スタルヒンの名が上がりました。
球場の正面入り口には、巨人軍ユニフォーム姿のスタルヒンの銅像が、立てられています。

 

プロにスカウトされた経緯
                

長女ナタージャさん

スタルヒンが中学3年の時に全日本チームに強引に引き抜かれたのは理由がありました。1933年の日米野球で17戦全敗。翌年開始から5連敗を喫していた全日本監督市岡忠男にとって1勝を挙げるという至上命令がありました。
まだプロ野球が誕生しておらず野球人気は六大学で、文部省は「学生野球の選手をプロ球団と戦わせてはならない」。主催の読売新聞は職業野球団「大日本東京野球倶楽部」を結成。京都商業の沢村栄治を中退させたのと同様の手口でスタルヒンを退学させてチーム(後の読売巨人軍)に入れるためでした。
旭川にスカウトを送るものの、地元のスターを引き抜かれることに旭川市民は抵抗。甲子園へ出場させるという願いを持っていたスタルヒンにとっては苦渋の決断で、経済事情に加え、さらには亡命者であるだけに断れば家族全員国外追放、ソビエト連邦への強制送還とする可能性をほのめかされ、断るわけにもいかず、後ろ髪を引かれる思いで母と共に上京しました。
クラスメートには一切事情を知らせないまま夜逃げをするように列車に乗ったといいます。