1926年(大正15年).6.15~2006.5.6
アイヌ文化研究者(博士(学術))。
アイヌ文化、およびアイヌ語の保存・継承のために活動を続けた。
二風谷アイヌ資料館(シシリムカ二風谷アイヌ資料館)を創設し、館長を務めた。
アイヌ初の国会議員(1994年から1998年まで参議院議員)。在任中には、「日本にも大和民族以外の民族がいることを知って欲しい」という理由で、史上初のアイヌ語による質問を行った。
2020年4月24日、白老町に国立アイヌ博物館がオープンします。
道内にアイヌの歴史や遺品を展示している施設は22カ所あります。白老町を選んだのは、外国の観光客が毎年20万人訪れているのと、札幌からのアクセスが良いこともあり決定したのでしょう。しかし、アイヌ民族の本物を知るには「平取町」が最も適していると思います。
この町は、大正の初めまで町の人口の8割がアイヌの人たちだったのです。
17世紀の静内・新冠で起きたシャクシャイン蜂起後に、アイヌの人たちは平取地区に追いやられ、一大集落となったからです。
20年ほど前に、家族で平取町の二風谷にある「二風谷文化博物館」を訪れたことがあります。玄関を入ると、初めて聞くアイヌの言葉が流れていました。
標本資料として民具や文献、映像・写真が1万点を超えるものです。アイヌの衣装はどこでも同じかと思っていましたが、文様で地域が違うことを知り、初めて「アイヌ民族」と接した時間でもありました。
館を出て駐車場まで来た時に、道路を挟んで遠くでこちらを見ている人物がいるのが分かりました。風貌からして「萱野さん」だと思いました。そこには「二風谷アイヌ文化資料館」があるからです。
たくさんのアイヌを見て来たので、道路を渡ることはありませんでした。
後に、これが私を後悔させることになりました。それから6年後に萱野さんは亡くなりました。
生い立ち
大正15年、アイヌコタンがあった平取町二風谷の貝沢家で、9人兄弟の4番目の子として生まれました。
しかし、父・貝沢清太郎は、鮭を捕る密漁の罪で何度も逮捕されており、前科者の子として扱われるのは忍びないと、戸籍では伯母夫婦である萱野家の実子として届出されました。
貝沢家の中で、ただ一人「萱野」の姓を持って育つことになったのです。
父方の祖母(てかって)がおり、日本語をまったくしゃべれなかったので会話は完全にアイヌ語で、叙事詩のユーカラや昔話を聞きながら育ちます。
祖母は100歳まで長生きし、昭和20年に亡くなるまで一緒に暮らし、祖母の口から茂の頭に移され引き継がれていきました。他のアイヌ家族のようにアイヌ語を禁じられていたならば萱野茂は存在しなかったでしょう。
昭和14年、小学校を卒業した茂は、13歳で浦河営林署の造林人夫として働き始めます。その後も測量人夫、炭焼きの仕事などを転々とします。
昭和21年からは古着の行商、続いて造林の親方。25歳の時に同じ村に住む19歳の「れい子」と結婚しますが、出稼ぎが多く数か月も家を空ける状態が続きます。
昭和28年に大きな転機が訪れます。実家に戻った時に、父が最も大切にしていた「トゥキパスイ」(棒酒箸)がなくなっていました。長さ30㎝ほどの「木のへら」のようなもので、カムイへのお祈りの時に酒を先にひたして祈る道具です。父は酒のために学者に売り払っていました。
ついに民族意識に目覚めます。アイヌの民具がただ同然で持っていかれるのを防ぐために、自ら買い取ろうと思い立ち、民具を集め始めます。
また、このころから木彫りをはじめます。層雲峡でアイヌ細工の店に立ち寄った際、二風谷のアイヌ細工と全く違う木彫りが売られていたことに衝撃を受けます。これでは間違ったアイヌ民具が広まってしまうと、熱心に彫刻を練習し昭和34年から彫刻だけで生計を立てていくことになります。
北海道の民芸品に「木彫り熊」がありますが、これはアイヌの民具ではなく、道南の八雲町に入植した尾張藩主徳川慶勝の家臣が冬場の内職として始めたものです。この木彫りを旭川のアイヌが見て作り始めたのが広まりました。八雲歴史資料館には、当時彫られた木彫り熊が展示されています。
更に、テープレコーダーを購入し、ユーカラを歌える古老を見つけては、謝礼を払って録音して歩きます。
ユーカラ(英雄叙事詩)、カムイユカラ(神謡)、ウウェペケレ(昔話)などをテープに録音し続けます。昭和44年からは木彫りを並べた「萱野工芸品」という観光みやげ店を開きます。
66歳の時に、平成4年平取町議会議員を辞職し参議院選挙に出馬。
結果は次点落選でしたが、2年後に繰り上げ当選。
そして平取から初の国会議員が誕生します。アイヌ民族の期待を一身に背負っての国会でした。参議院環境特別委員会で、56分間の発言が許可されます。
冒頭の挨拶はアイヌ語で「ニシパウタラ カッケマクタラ シネイキンネ コンカミナ」(紳士淑女の皆さま、ご一同にご挨拶を申し上げます)
日本憲政史上、はじめてアイヌ語が議事録に記録されました。
彼の働きで、明治32年に制定され、時代にそぐわなくなった北海道旧土人保護法は廃止され、アイヌ新法が制定されました。
このアイヌ新法の法案によって、アイヌ民族への支配と差別の歴史を国が認めたのです。萱野は1期限りで引退、「狩猟民族は足元が明るいうちに故郷に帰るものだ」という言葉を残して二風谷へ戻りました。
萱野茂氏の残した功績は数知れません。
私の本箱の中に童話が何冊か残してあるのですが、その中に萱野茂の作品も含まれています。平取のアイヌ民族に伝わった「源義経伝説」と思われるものです。
平取はその後何度か訪れました。「スズランの群生地」が芽生(めむ)地区にあり、毎年イベントを開いています。二風谷から、国道を40分ほど入ったところで、ここで貰ったスズランが私の庭に咲いて増えています。また、義経神社では日高の馬産地でもあるので、毎年サラブレット祈願で境内の石段を駈け上ります。