渡辺 カネ
安政6年4月14日〈1859年5月16日〉
     ~ 1945年〈昭和20年〉12月1日

開拓者として入植した教育者
晩成社幹部鈴木銃太郎の妹で、晩成社幹部の
一人渡辺勝と結婚した女性。

「帯広教育の母」「女性入植者のさきがけ」「十勝開拓の母」と呼ばれています。

1859年(安政6年)、江戸(文京区本郷)で鈴木家の長女として生まれます。父の鈴木親長ちかながは信濃の国上田藩主松平(長野県)の家臣で、6歳から上田城下町で育ちました。
1871年(明治4年)の廃藩置県により、鈴木家は明治5年11月(カネ13歳)に上京し養蚕業を始めますが商人に騙され巨額の税金をとられ一年で廃業。
明治7年、横浜の石川町坂上に移転。父の親長は文明開化を唱える人物で、横浜は異人館が立ち並ぶ町、カネは自由奔放に育ち、父と兄の銃太郎はキリスト教徒であり受洗していました
明治8年春、横浜の共立女学校(のちの横浜共立学園)に入学。明治4年創立のアメリカン・ミッションスクール(日本最古の学校)で高校と大学を兼ねていました。
明治15年、英学部を第一回生3人のうちの一人として卒業。23歳でした。カネは母校で教師となります。高い教養を身に着けた同校の出身者は、その後外交官や貿易商の妻になる者が多い時代でした。

開拓者の道へ

鈴木銃太郎

カネの兄銃太郎は東京のワッデル塾(ヒュー・ワデル宣教師の私塾)で一緒に学んだ依田勉三よだべんぞう渡辺勝わたなべまさるらと晩成社ばんせいしゃ開拓団の事業に専念していました。この事業に父親長も「破産士族移住の説」を唱え参加していたのです。
カネは伊豆から来ていた依田勉三らと出会います。渡辺勝は北海道へ渡ることを理由に結婚話が破談になり心を痛めていました。依田は彼を案じて、鈴木銃太郎に相談したことで、渡辺勝とカネの縁談話が持ち上がります。

渡辺勝

明治16年1月5日、25歳になったカネは依田勉三の媒酌のもと、渡辺勝と結婚。
開拓生活を望んだのは「弱い者いじめをする日本人が嫌いなのです。東京も長野も、そして横浜もそんな日本人ばかりです。強い者には卑屈に媚びる、しかし影に回ると大勢で卑怯なことを平気でする。そんな人間にはなりたくない」カネは、偏見のない土地で頑張りたいと思っていました。

勝はすでに北海道に渡ることが決定しており、横浜港を出発する前日の4月9日夜、横浜の共立女学校で結婚式が行われました。カネは姑から移住を許可されなかったことで出発が遅れ、5か月後の9月19日、父の親長、依田の末弟の依田文三郎らとともに横浜を発ち「10月17日」下帯広村(のちの帯広市)に到着。

下帯広村に到着するとカネは私塾を開きます。移民やアイヌの子どもたちを集めて読み書きを教えました。ヤナギの木皮を水に浸し、にわか作りの縄で結んで作り上げた粗末な小屋で、これが帯広の教育の始まりでした。塾は開墾作業のあいまを利用したものでしたが、帯広市街に寺小屋ができるまで、約10年間続けました。

北海道の入植

十勝は北海道で最奥地のひとつで、荒野開拓の苦労は、言語に絶するものでした。生活は、すべてにおいて窮乏しており、医者も産婆もおりません。夏には大量のカやブヨ、イナゴなどに襲われ、更に冷害、洪水、風土病、野火などが、次々に繰り返されます。

晩成社の開拓事業が困難に瀕したときに、人々を慰め、励ますことも、カネの役目のひとつでした。

明治18年6月、カネは長女を出産。直後からマラリアに苦しめられました。しかし、マラリアは移民たちを苦しめる病気であることを知っていたカネは、抗マラリア薬であるキニーネを譲り受けていたため治癒しました。そうして、多くのマラリア患者を救うこともできました
カネは、夫の勝とともに週に1度、キリスト教の集会を自宅で開いており宣教師たちも頻繁に訪れ、ピアソン夫妻の姿もありました。
十勝を訪れる調査員や測量技師など、ほとんどの人たちはカネの世話になったといいます。

入植してから4年目の明治19年、依田勉三が大樹村に移って牧場を始めます。
勉三の妻リクも帯広を去りました。
また、
渡辺勝と鈴木銃太郎がともに、帯広から20キロ離れた西士狩村(のちの芽室町めむろ)へ開墾に出向き、晩成社は幹部2人を欠いたことから、なおのことカネが皆を支えなくてはならなくなります

アイヌとの交流
アットゥシ

渡辺家はアイヌの人たちと親しくなり、アイヌ女性は織物であるアットゥシを、1枚につき縫い針3本で交換してくれました。カネは横浜を出る時に着るものは現地で調達しようと考えていたのです。
このアットゥシが、カネの野良着で、脚はショウブの茎を乾かして作った草履や草鞋を履くこともありましたが、普段は裸足でした。

カネはアイヌと交流を深め相談相手にもなります。勝とカネはアイヌに対して対等に接していたため、勝を「ニシパ」(親方)と呼んで親しみ、勝とカネの家に入り浸って交友を楽しんでいました。

 

然別しかりべつ(のちの音更町)への転居

入植から10年後の1893年(明治26年)、帯広は市街予定地の区画割にまで発展し、徐々に生活環境が改善されていきました。
しかし、勝は畑の成績が一向に上がらないことから、畑仕事に見切りをつけ、牧場経営に転換すべく、然別村(のちの音更おとふけ町)へ転居し新たな地での再出発を余儀なくされました。カネの苦労は依然として、減ることはありませんでした。

勝は牧場経営に取り組み、道庁から種馬の貸し付けを受け、牛乳飼育にも心を配り、帯広市街に毎朝牛乳配達も行いました。やがて明治31年には村の総代に選ばれ、その8年後には第1期音更村村会議員に当選するほど、村民たちからの信頼を得ていました。
しかし、勢いづいていた勝の内面は嵐が吹いていました。次第に酒を煽るようになり、家庭を顧みず、カネにも辛くあたります。これは、頼みの綱であった牧場経営は、収入に対して支出が2倍以上という赤字続きであったことや、後から然別に入植した者が、さほど苦労もなく収入を得ていたことで、開墾当時からいた勝にとっての不満が募ったためと見られています。

カネと娘たち(1907年)

勝にかわり、家庭でのすべての負担はカネの肩にかかりました。カネは家計のやりくり、二男四女の養育、世間との交際のすべてを、勝に代わってこなします。特に家計のやりくりは困難を極め、トウモロコシの粥が主食でした。子どもたちの養育のためにニワトリを飼い、卵を売って学費にあてたこともありました。

1921年(大正10年)10月、勝は脳出血により倒れ、大正11年に死去。カネは夫の最期を看取ったあとに、然別を離れて帯広に戻りました。

 

 


晩年

1932年(昭和7年)末、晩成社が解放されます。カネの子のうち、息子2人がカネに先立って死去しており、カネに遺された仕事は、孫の養育でした。
晩年のカネは特に恵まれてはいないものの、平穏な日々を過ごしました
昭和8年に帯広が市政制定され、北海度の開拓の苦難はもはや、遠い過去の話となっていました

渡辺勝・カネ入植の地

70歳を過ぎたカネは、学校や団体などから入植時の体験話を依頼されることがありました。
これといった自慢話はせず、「晩成社は失敗しましたが、花咲かじいさんの犬の役目をしただけで、ここほれワンワンと教えたのです」と淡々と述べるだけでした

カネの晩年の句に「十勝野の 枯れ株に咲く リリの花」カネは昭和20年、はじめに入植した帯広の自宅で、孫たちに看取られながら亡くなりました。87歳でした。