岩元 悦郎 (いわもと えつろう)

1907年(明治40年)~1998年(平成10年) 享年92歳
帯広盲唖院設立者 点字図書館 
視覚障碍者福祉の貢献者

 

北海道帯広盲学校は、帯広市に所在する視覚障碍者を対象とする道立の特別支援学校です。かつて道東地方には視覚障害者・聴覚障碍者の教育施設がありませんでした。それを知った小樽盲唖学校訓練の岩元悦郎が1937年に帯広市に移住し私立帯広盲唖院を開設したのがはじまりです。現在帯広盲学校の生徒は小学校2名・中学校5名の7名で、教職員数32名です。

20年ほど前に札幌の障碍者施設を対象とした「絵画展覧会」を開いたことがあります。かつての同僚が障碍者施設支援のための画商をしており、国の支援がいかにお粗末であるかを知らされました。札幌六ケ所の障碍者施設に呼びかけイタリアから画家を招く本格的な絵画販売でした。健常者にとっては知らないことばかりで、今でも障碍者施設から毎月会報が送られてきます。


生い立ち

岩元悦郎は明治40年、南富良野村で誕生しましたが、幼少時より視力が0.01程度と悪く人の顔も判別できず、着物の柄や姿、形で見分けられる程度でした。小学校時代は特殊学校ではなく普通学校だったため教員が視力を気遣って、黒板の字を見やすいように書き写したり、級友たちが家まで送ってくれたりと、親切な人々に囲まれて育ちました。札幌の眼科で診察を受け、「将来、手術を受ければ視力が回復する」といわれ将来に希望を抱いていました。

1915年(大正14年)、札幌で念願の手術を受けましたが視力は回復どころか、逆に低下する一方で十数回にわたる手術の末、ついに完全に失明してしまいました。母を怨み「どうしてこんなふうに産んだんだ」と、母と共に泣き合うこともあったといいます。

点字との出会い・盲教育の道へ
21歳のときに、小樽に住む親戚から小樽盲学校(1977年に廃校)を勧められ入学。この小樽盲学校で、初めて点字に出会い夢中になり、数日後には本が読めるまでになります。もともと小説が好きで、それまでは家族の者に読んでもらっていたので、自力で本が読めることは大きな喜びでした。
岩元は点字を通じて希望を取り戻し、盲学校の教員を志します。1931年(昭和6年)、東京盲学校の師範部で、教員の資格を取得。
また在学中に、健常者の筆算と同様に点字で計算の可能な点字盤「岩元式点字盤」を考案。1935年(昭和10年)、母校の小樽盲学校に教員として赴任しました。

1937年(昭和12年)、菅原ヒデと結婚。ヒデは健常者で、岩元より年下ながら、岩元が小樽盲学校の生徒だった頃にすでに特殊教育の教員として勤めており、教育者としては先輩でした。

帯広での盲唖教育
岩元は結婚を機に、新たに盲亜学校を開くことを考え、当時、北海道内の盲学校や聾学校は北海道内に5か所しかなく、道東には皆無という事情がありました。昭和12年4月、妻ヒデと共に帯広を訪れました。まったく未知の土地であり、貯金もなく、知人も皆無でした。まず1軒の民家を借りて「帯広盲唖院」の看板を出します。新聞記事に取り上げられたことで、27歳の女性、少女2人が入学し、同1937年7月1日に開校。これが帯広および道東方面での特殊教育の始まりとなります。

授業料は無料とし、学校の設備や教科書など、一切の費用を負担しました[。市町村や団体から定期的な寄付もありましたが、それ以上は小樽盲学校でマッサージ師の資格を得ていたので、治療院の看板も出し、午前中は学校、午後は治療に専念しました。

盲唖院の生徒が徐々に増える一方で、治療院の仕事は捗らなくなります。開校直後に日中戦争が開戦したこともあり、生活は苦しさを増します。しかし、生徒が増えたために学校だけでは足らず昭和17年、別に寄宿舎の建物を借りて移転し、生活はさらに苦しさを増しました。マッサージの客の斡旋のため、帯広の旅館を回り夜中でも仕事の依頼の電話があると、飛び起きて駆けつけました。午前中は授業、午後は寄付金集め、生徒募集に加えてマッサージ業で、深夜0時まで奮闘の日々が続きます。

帯広市長や有志が、「基金を募って新しい校舎を建てる」と申し出ますが、太平洋戦争が勃発し、折角の話も頓挫してしまいました。経営難が続きますが、生徒の多くが農家であり、親たちが農作物を届けてくれたので、どうにか生活を続けることができました。終戦直後の1946年(昭和21年)には、巨額の10万円の寄付があり、窮状から救われました。

ヘレン・ケラー(写真は十勝ヘレン・ケラー記念塔)

戦後、教育基本法や学校教育法が制定された。岩元の学校は規制の条件を満たせず、閉校せざるを得ないと考えていました。ところが1948年(昭和23年)、ヘレン・ケラー(68歳)が二度目の来日で北海道に来ることを記念し、私立の盲唖学校が道立になることが決定されました。
岩元はヘレン・ケラーの公演を聞き、三重苦を克服したケラーの言葉に改めて盲教育への情熱と、信仰への確信を得ます。日本では視覚障害者の仕事といえば按摩やマッサージ程度に対し、アメリカでは二百種以上の仕事があることに大きな驚きがありました。

盲唖院は道立に移管され、帯広盲学校・聾学校が誕生。岩元は盲学校の校長、妻は聾学校の教員として勤めました。校舎も体育館や広い校庭のあるものとなり、職員も生徒も増え、初めての月給を手に教育者として充実した日々を送ります。

突然の転任

1954年(昭和29年)、岩元は教育委員会からの指示により、退職を強いられます。「障害者の校長は認めない」という方針でした。
「障害者でも校長になれることは、同じ障害者である生徒たちの象徴」と主張しますが、教育委員会の態度が変わることはありませんでした。幸いにも高等学校の教員免許があったため、妻と4人の子供たちと共に札幌に移り札幌盲学校の高等部に赴任しました。

札幌ライトハウス
※「ライトハウス」とは創始者岩橋武夫が1922年(大正11年)に大阪阿倍野区の自宅で点字出版に着手したことからスタート。

1969年(昭和44年)3月、札幌の学校を63歳で退職。その後も視覚障害者のためにできることを探し図書館を考えます。当時、図書館に点字本は少なく、しかも点字もテープ録音もすべてボランティアでした。
退職金をもとに、視覚障害者のための福祉施設「札幌ライトハウス」を設立。本や録音テープを貸し出す他、札幌市からの委託事業として、タイプライター、時計、白杖、点字機など、視覚障害者用具の斡旋、更生相談なども行いました。
点字計算板、簡易点字印刷法も発案。特に岩元式の簡易点字印刷機は、それまでの大きな力を要する点字印刷機と比較して、一度に複数の点字印刷が可能な、非常に重宝する機械でした。年末のクリスマス募金を除けば無報酬でしたが、障害者への貢献に大きな喜びを覚え、充実した晩年を送りました。1996年(平成8年)、札幌ライトハウスは資料類を大阪の施設に寄付し、その活動を終えました。

1998年(平成10年)12月4日、心不全により死去。