(さとう しょうすけ)
1856年(安政3年)~1939年(昭和14年) 享年84歳
北海道帝国大学(後の北海道大学)初代総長。日本初の農学博士の一人。
北海道大学の前身である「札幌農学校」設立の目的は、開拓使長官黒田清隆の構想で「将来北海道の行政機関で働く人材を育て、入植する者を指導して、北海道に新しい社会をつくること」でした。
明治維新後、北海道のリーダーとなった人物は現在の鈴木知事で42名おります。選挙で知事選となるのは昭和22年からで7名です。田中敏文(当選3回)青森県出身・九州帝国大学農学部林学科卒、町村金五(当選3回)札幌出身・東京帝国大学卒(現・東京大学)、堂垣内尚弘(当選3回)札幌出身・北海道帝国大学(後の北海道大学)工学部土木工学科卒、横路孝弘(当選3回)札幌出身・東京大学法学部卒、堀達也(当選2回)樺太出身・北海道大学農学部林産学科卒、高橋はるみ(当選4回)富山県出身・一橋大学経済学部卒、鈴木直道(当選1回)埼玉県出身・法政大学第二部法学部法律学科卒。
日本の大学はたくさんありますが大学にはカラーがあるものです。設立の目的によって教育に違いがあります。目的に応じた人材教育を行っているわけですが、佐藤昌介を調べてみると今の大学教育はどうなのかと思う所がありました。
生い立ち
明治がはじまる12年前に、現在の岩手県花巻市で南部藩士の長男として生まれました。明治維新後、父親の立場は苦しく隠居を余儀なくされ昌介は14歳の時に家督を継ぐことになります。家計も苦しく一家は花巻から盛岡に移りました。
昌介は藩の作人館で学びますが、この時後の総理大臣となる原敬と机を並べることになります。勉強で身を立てようと上京して当時の東大中等部にあたる大学南校に入学。しかし、病気のため一年で退学し実家にもどりますが、18歳で再び上京し東京英語学校に入りました。かつての同級生が皆上級生になっていました。東京英語学校を卒業すると東大に入るのが当然の時代でしたが、東大は6年間の勉強で果たして学費が続くかと悩みます。
明治9年、北海道開拓長官黒田清隆の案により日本で初めての農学校が札幌に設立され、クラークが経営を任されることになりました。教授が外国人のため東京英語学校の学生に募集をかけます。クラークの演説で昌介の運命は決まりました。この時21歳でした。
合格したのは11名で昌介も入りました。すでに札幌学校(札幌農学校の前身)から進級を認められた13人と合わせて24名が一期生と決定。
クラークと黒田清隆は学生と一緒に品川を出航し小樽へ向かいます。学生とはいっても、この時代は元武士の崩れたものもおり、昼間から酒を飲んで騒ぐ者もいました。船の中で、同船した女性を巡って黒田を怒らせてしまいます。黒田は、札幌につくる農学校では、特に道徳教育にも力を入れて指導していきたいと考えていました。
クラークの教育方針はこの船上で決まりました。クラークは「道徳教育は聖書を使わなければ絶対にできない」と力説しますが、黒田は「キリスト教は300年に渡って禁止されていた宗教。ましてや官立の学校が聖書を使うなんてできない相談だ」と対立をします。しかし、クラークは札幌農学校の最初の授業のとき、学生に酒の入ったグラスと英語の聖書に一人一人の学生の名前を書いて渡します。そうして、「ビー・ジェントルマン(紳士であれ!)」と要求しました。
黒田はクラークのキリスト教教育に目をつぶりました。クラークが教鞭をとったのは、わずか8か月間でしたが学生達に贈った「ビー・ジェントルマン」を信条としていました。それは学校の規則もさることながら、人間としての在り方も、この一言以外のなにものでもありませんでした。
昌介は明治13年に第一期生として卒業しますがクラークは「将来の自分の後継者は佐藤しかいない」と思っていました。それはクラークが佐藤に送った手紙があります。要約すると「北海道について君が立派な考えを持っていることを嬉しく思います。/君の生きている間にこの地は、人びとの多い豊かな土地となるでしょう。それを実現するためにも、大学の勉強は出来る限り完璧にやり、そうして思ったことは全力でやりなさい。/君にもう一度会えることを願っています」
卒業と同時に開拓使御用掛となり、母校の農場で学生の農場実習にあたります。しかし、この指導が学校で学んだだけでは不十分でした。昌介はすでに結婚していましたが、自費でアメリカ留学を決意しホートン大農場でバターなどの乳製技術を一年学び、更にジョンス・ホプキンス大学で特別奨学生として農業経済学を学びました。
明治19年帰国32歳でした。母校出身者として初めての教授に任命されます。
しかし、この時、第一回目の農学校存続の危機がありました。国は「何も高等教育を行わなくても、農民が勝手に農地を開拓してくれる」 これを聞いた昌介は北海道庁長官である岩村通俊の所に駆け込み「農業教育なくして開拓ができると本当に考えていらっしゃるのですか?」と迫りました。
彼の力説は、いったん決まりかけていた方針を覆し存続させることに同意させました。
明治20年、校長代理となった昌介は「農学校も基本財産を作ることを考え、道庁から国有未開地の払下げ」を申し出ます。これは大学の実習地としての役割も果たすものでした。
明治26年、校長心得となった39歳の昌介にまた学校存続の危機が訪れます。
政府が行政整理・経費削減を行った際、札幌農学校も整理の対象となり廃止は決定されていました。上京し内務大臣に存続の意義を、北海道の歴史とともに説きました。熱意あふれる昌介の言葉に素直に受け入れ、かわりに職員の減棒というかたちで存続となりました。これは黒田清隆が裏で動いてくれました。
明治40年、長年願ってきた大学が設立されることとなりました。同郷の親友原敬の計らいで、古河財閥から校舎建築の資金が提供され、札幌農学校は東北帝国大学農科大学となり初代の学長となります。
しかし、昌介の夢は「北海道民が望んでいた独立の総合大学を作る」ことでした。当時の大熊内閣は政府でお金を出すことはできないが、寄付や独自の財源でなら大学を認めても良いというものでした。
昌介は日本医師会の後援を得て、創立費用は有志の寄付と、この時のために用意していた大学の財産(土地)を処分することにしました。こうして総合大学、北海道帝国大学が誕生します。大正7年、昌介62歳で初代総長となりました。翌年に医学部ができ、更に附属病院も完成。
大正14年に工学部、続いて5年後には理学部ができました。
昭和5年、昌介は北大総長を退きます。75歳でした。
昭和14年、84歳で生涯を閉じますが葬儀は、昌介が一生を捧げた北大で大学始まって以来初の大学葬として行われました。