1867年〈慶応2年〉
- 1916年〈大正5年〉 48歳病没
北海道開拓者、富良野開拓の父と呼ばれています。
銅像が富良野市役所前庭にあります。
福岡県の農家生まれ、福沢諭吉の近くであったことから慶応義塾で学び、福沢に「北海道の開拓は、国家事業であるとともに、個人としても資産を成す道である」と教えられます。これは帯広に入植した伊豆の依田勉三も同じでした。
千幹は三男で夢を膨らまし、知り合いの代議士に頼んで富良野農場195万坪の土地を借り受けることに成功。
30歳で旅立ち
明治29年、30歳で6人の仲間と共に北海道に渡り、福沢諭吉の書状を手にして開拓移住者の許可を受けると富良野を目指しました。石狩川を遡り空知川の分岐点である現在の滝川に到着。
滝川までは開拓が進んでいましたが、ここから先は全くの密林地帯。
千幹は、皆を危険な目にあわすことはできないと考え、12月アイヌを先導に中村千幹・関鉄蔵・北川清太郎の3人で野花南を経て、アイヌも恐れている難所空知大滝を渡ります。しかし、水量が多く断崖に阻まれたうえ雪崩にあい、進退きわまりました。
だが、ここで退いては開拓魂が許さないと奮い立たせますが、ゴム靴などない格好で渡ろうとして足も腰も冷え、下半身は下着まで凍りつき生命の危機を感じたといいます。何とか川を渡り終えると、川岸をたよりに深い雪を踏みつけて進みます。疲労と空腹と戦いながら、誰もが踏み入れたことのない密林を抜けて、ついに富良野の原野にたどりつきました。
ここが富良野発祥の地、扇山です。扇山地区はJR富良野駅から南にある布部駅の中間地点で、現在も富良野市街から東側の国道38号線にあります。
ここに仮小屋を建て、それを目印にして一旦引き返しました。
「開拓魂」の碑は扇山開基50周年を記念して昭和28年に建立されました。
明治30年、空知川を遡るのは近いが危険と判断。千幹は滝川で結婚したばかりのコウを連れて石狩川を遡り、神居古譚経由で忠別太(現・旭川)に到着。
そうして、忠別太を出発し美瑛(宿泊),美瑛川を渡り上富良野の三重団体に到着し団体長である田中常次郎宅に一泊。更に現在の9線道路である山裾を進み野宿をしながら四日後に扇山に到着しました。残りの移住者も旭川から出発し、三日後には扇山に到着。
富良野に来たが、果たして作物が実るかどうかが一大事でした。
「まず、かぼちゃとキュウリをまいてみよう」と提案し畑を耕しに入りました。この年に植えたキュウリは成功し、秋にはかぼちゃも大豊作でした。作物が実るまでは、ヨモギ・ワラビ・ゼンマイなど山菜を煮たものばかりでしたから、千幹はホッと胸をなでおろします。
扇山は、土地も気候も農業に最適と見込みがつくと住宅を作ります。
住宅とはいっても笹の屋根に枯草を敷いただけの小屋で「うさぎやへび」が入ってきたり、夜は熊の足音を聞きながら過ごすこともありました。
衣服は着替えもなく、着の身着のまま、風呂はなく醤油の空き樽で行水をする程度。買い物は旭川まで16里(約64キロ)の道を歩き、しかも一回で持てる荷物は米12キロとランプの油一升が関の山。女の足で4日はかかりました。
千幹は、北海道に来る前に測量技術を身に付けていました。木を切り、雑草を刈って見通し線を作り、妻のコウにポールを持ってもらい農場の測量をします。
土地の区画が出来ると地図を作り、入植計画を進めます。
それは旭川、滝川、長沼と各地を回って、小作人の募集を行うためでした。
「富良野は有望な土地だ。必ず素晴らしい作物が実る。一緒に来てくれないか」と頼みますが、充分な道もなく旭川まで60キロあるので誰も応じる者がありませんでした。
鉄路・根室線が転機
明治32年、滝川から釧路間の鉄道工事が始まると交通の便が開けます。
以前は小作に応じなかった人たちも、少しずつ移住者が現れました。
「開墾成功のあかつきには、その土地を地主と小作人の半分わけ、いわゆる開きわけ農場にする」としたのです。これが知れ渡り、自分の土地になる希望があるので増えてきました。こうして、20軒ほどの仮市街がつくられ、草屋ながらも旅館も経営され、住宅も枯草の家から樹皮でしっかりと作られるようになりました。
しかし、千幹には心配事がありました。195坪の広い土地を切り拓くということで許可を得ましたが、期限までに開拓が進んでいなければ国に取り上げられてしまうのです。その役人が検査に来る日が迫っていました。検査に向けて、少しでも人口を多くみせようと、入植者のいない所にも笹を刈って小屋を建て、人が住んでいるように見せるという苦心までして検査日を迎えました。
検査の日になると、役人たちは「君たちの苦心は上富良野でよく聞いてきた。検査は合格だ。何も心配することはない」千幹とコウは、感極まり涙を流します。
国道38号
次に道路をつける計画を立てます。現在の扇山の幹線道路(現在の国道38号)は、千幹の構想がそのまま採用されたものです。
また、大正2年、45歳の時には稲作農業を始めようと、自然に水が流れる水路を計画します。その頃、絶対に不可能といわれた布礼別川(ふれべつがわ)からの工事を、村人の反対をおしきって実現させました。
農場の成功が見えると、195万坪を借りた代議士に土地代を払い、最初の移住者7名で分けることにしました。
千幹は全く私欲がなく、自分の土地でさえも小作人の開き分けに与えたので、他の6名のように広い土地を所有することはありませんでした。本州からの移住者が増えてきましたが、出稼ぎ根性で「一旗あげて、故郷に錦を飾って帰る」ではなく、この地に根をおろすくらいの意識で開墾に励むよう言い続けていました。
倉本聰の「北の国から」の舞台は「布部駅」からはじまります。 私はビデオで観たのですが、中村千幹をドラマの中で登場させたと思える場面がありました。 大友竜太郎に役柄を当てて、開拓を途中で投げ捨てて村を出て行った者に対する怒りのような言葉でした。 |
千幹は大正5年、48歳でガンのため亡くなります。
「村の発展を見ないで死ぬのが残念である」が最期の言葉でした。
富良野市開基70周年を記念して銅像が建立されました。
トップの写真は、麓郷の森から写したものです。