ジョセフ・ユリー・クロフォード

1842年(天保13年) – 1924年(大正13年)11月21日

明治時代にお雇い外国人として来日した
アメリカ合衆国の鉄道技術者。

明治14年(1881年)に任期満了となり、帰国するまで幌内鉄道の手宮 – 札幌間の鉄道敷設工事を指導しました
同区間以外にも高崎 – 東京 – 青森間の鉄道敷設工事も指導。
また、クロフォードの母国から機関車等を購入し、多くの技術者を雇いいれました。

三笠鉄道記念村

昭和62年、三笠市に三笠鉄道記念村がオープン。
公園内には再現した幌内太駅舎のほか、旧三笠駅を思い出させる跨線橋が残されております。
また、本物の蒸気機関車やミニ鉄道が走り、クロフォード公園と名付けられた市民公園もあります。

その後、平成8年(1996年)小樽手宮に小樽交通記念館が完成し、北海道鉄道発祥の地の起点と終点に日本を代表する鉄道記念館ができました。
小樽市は、この記念館にクロフォードの銅像を建立。左手に巻き尺を握り、測量機を前にし、石狩の大平原を見つめる姿です。
北海道で初めて走った機関車義経号は大阪の交通記念館に、弁慶号は東京交通博物館に、しずか号は小樽交通記念館にあります。

生い立ち

クロフォードは1842年、ペンシルベニア州の生まれました。
ペンシルベニア州大学とフィラデルフィアの工学院で、土木の専門教育を受け、大学卒業後は、コールヒ炭鉱やミドルボールド炭鉱に炭鉱技師として、また連邦陸軍の土木騎士も務めました。
南北戦争時には北軍に従軍し、北軍大尉として、土塁を築くという重要な役割を果たし功績を上げます。終戦後は、ペンシルベニア鉄道をはじめ、十数か所の鉄道測量技師、建築監督を勤めます。
1869年、27歳の時にアメリカ大陸鉄道の完成を体験し、西部の開拓と農業のめざましい発展を経験しています。

明治11年、来日

明治11年(1878年)12月、北海道開拓使として来日し、開拓使顧問を務めます。北海道の石炭業は幕末から始まっており、現在の泊村が炭鉱開発のはじまりでした。明治元年の冬、空知の三笠幌内川上流で住民によって炭層が発見されます。

明治4年に開拓使の「物産取り調べ掛」の榎本武揚が調査したところ、良質で埋蔵量が多いことがわかりました。
開発が具体化されるにつれ、搬出路が議論となり、開拓使顧問のケプロンは黒田長官に2つの案を出します。一つは幌内から石狩川岸まで鉄道をつくる。もう一つは太平洋側の室蘭まで鉄道を敷く方法でした。
ケプロンは室蘭に着目し主張します。しかし、榎本は猛反発。
実地調査したこともなく、測量もしていないばかりか、鉄道や湾岸の築造費の見積もりもありません。こうして、二人は平行線をたどっていました。
これを解決するために、黒田長官はクロフォードを招き入れることにしたのです。

明治12年3月、クロフォードは幌内炭鉱ー幌向太間の鉄道予定線を測量。
この予定線実地調査の結果、幌内鉄道は将来全道に敷設しなければならない鉄道と連絡するのは無理だとわかり、幌内から札幌を経て小樽に敷設するのが一番良い方法となります。ただし、大きな問題は熊碓ー銭函間の海岸の断崖絶壁と結論づけました。
クロフォードは、この難所である東小樽の熊碓ー銭函間の実地調査を行い、さらに工事費用を調べるために、最も危険な場所の道路開削工事を行いました。
その結果、最小限の経費で開削できると決断し、改めて幌内ー小樽手宮に鉄道を敷設すべきと提言しました。
彼の見積もりは5万円でした。それまでの工事見積もりが8万円だったので、開拓使やケプロンを唸らせる説得力がありました。

明治12年6月、クロフォードを鉄道敷設技師長に任命し幌内鉄道の工事が開始されます。彼の指導の下、北海道の鉄道局は後に優秀な人材を多く輩出しました。
小樽ー銭函間の工事は、開始から半年で海岸沿いに札樽馬車道が開通。

続いて鉄道工事も開始。明治13年には幌内炭鉱で炭鉱道開削の準備にかかるとともに、小樽手宮から鉄道線路にかかる土地の買い上げや家屋の移転などの交渉がはじめまれました。更に、木材の切り出しにも着手。

開拓使は、彼をアメリカに派遣。機関車や鉄道車両やレールなどの資材購入と、機械や土木技術助手を雇い入れるためでした。
明治13年6月、6人の土木技師や車両技師らを雇い入れて戻ってきました。
そうして、鉄道資材が9月に到着すると、手宮から札幌までのレールは伸び始め、完成に2か月はかかりませんでした。

明治13年11月28日、待望の手宮ー札幌間35キロの汽車運転式が盛大に行われました。
この日、前頭部に日章旗と星条旗を並列させた機関車弁慶号は、客車3両を率いて、午前9時に手宮停車場を、時速20キロの速さで発車。
札幌停車場前では開拓使の官僚たちはもちろん、札幌の住民たちが興奮して待ち受けていました。
やがて正午、弁慶号は汽笛を鳴らし、カランカランと鐘を鳴らしながら入ってきました。
その後、義経号、しずか号など、アメリカ・ポーター社の蒸気機関車6台が活躍しました。

小樽は、この札幌ー手宮菅の鉄道開通によって、いちはやく石炭の積み出し港として内外にクローズアップされます。
まもなく札幌ー幌内間も開通し、幌内炭鉱からの初荷が小樽港へ運ばれたのは、明治14年11月のことでした。
この距離90キロ、走行時間は5時間。旅客料金は40銭、盛りそば一杯1銭。

明治14年、帰国

この年、明治14年に幌内鉄道を完成させ3年間の任期を終え、クロフォードはアメリカに帰国しました。

帰国後、ペンシルバニア鉄道の副社長補佐役など生涯鉄道開発に携わり、大正13年、83歳でフィラデルフィアで亡くなりました。