くろまつない町名はアイヌ語のクマッナイ(和人の女性の・沢)に由来します。和人は大半が男性で、アイヌにとり和人の女性が珍しかったことによるものという説です。

1821年、松前の花岡利右衛門が花岡宿を開き開拓の祖といわれています。
まだ山道も開通前のことで、この宿は、明治になってから黒松内駅逓所になり、初代の戸長役場にもなっていました。

黒松内山道 太平洋と日本海をつなぐ道

1856年、箱館奉行所により黒松内山道(長万部~黒松内~歌棄)が開削されます。これは宗谷までの路線確保からでした。
これにより明治4年に駅逓が設置され、人馬継立に従事する伊達邦成家臣横山勝四郎ら13戸が入地し開拓をしています。

旧斗南藩34戸が作開村に移住します。作開は旧斗南藩の人々によって開拓されたので作開としましたが、もとは別手村でした。

明治16年、後志興農会社が牧畜、農産目的で開墾。
明治20年代後半から谷農場・中田農場などが開墾。
熱郛(ねっぷ)の開祖とされるのは新潟出身の横付儀兵衛で明治24年に土地を調査し、翌年横付豊次郎らが開墾、4年後に横付農場を創設し愛知から横井松右衛門ほか33戸が移住し開墾されました。

明治36年、函館~小樽間の鉄道が開通し、黒松内・熱郛駅が開業。
駅前に市街地が形成され戸数348戸人口1800人に至っています。

昭和30年、黒松内村・熱郛村・樽岸村の一部が合併し三和村となり、4年後町制施行し後に黒松内町に改称しました。

最北限のブナ林

黒松内の市街地から約2㎞の歌才に自生するブナ林は、わが国最北限のもので、国の天然記念物に指定されています。
開発ではなく、自然保護による町づくりを目指しています。