音威子府村は国道40号線で旭川から稚内に向かうと、時間でいえば中間くらいになります。

JR宗谷線の駅では「黒い蕎麦」が人気で、早々に売り切れてしまうといいます。「北海道ゆかりの人たち・砂澤ビッキ」は良く読まれている「人」ですが、ビッキのアトリエがあったのが音威子府村です。
また、松浦武四郎が北海道と命名した時のアイディアは、この地でアイヌ古老から聞いたことからとされています。

音威子府村のはじまり

明治36年、御料地の貸付制度が開かれ、翌年咲来・常盤駅逓所が設けられ、長村秀その後塚田藤右衛門が引き継いで取扱人となりました。

明治38年、32戸が入植し、士別から下村庄蔵らが茨内に、剣淵から加藤兼五郎が入地しています。

上音威子府地区は、札幌農学校演習林の管理労力の供給源として入植を進め、大正期から入り、この地区の入植者は農業のほか炭焼、演習林の労務に従事しました。

大正元年に鉄道が開通してからは越中・秋田などから入植者も増加し、燃料用の薪や製材にどの需要も高まり、昭和に入ると木工場が建設され、戦後チップ工場も設置されました。

村面積の80%が森林で占められ、さらに北大演習林と道有林が90%7を占め、造林・木工品の製造が行われています。

写真は砂澤ビッキのアトリエが記念館になっています