「くんねっぷ」と言います。アイヌ語の「クンネプ」から転訛したもので「黒いところ、やち川にして水黒し」の意味からの由来といいます。

明治2年、この地方は北見国常呂郡となりました。
しかし、明治20年くらいまでは網走を中心に漁民と商人、海岸の近くにごく僅かの農牧移住者がありましたが、交通路のない内陸は未開地でした。

北海道の北見を開拓した移民団出航の地(高知)

北光社移民団出航の碑

ホテル日航高知旭ロイヤルの運河沿いに、北光社移民団の碑があります。

「明治30年3月、この地から112戸の移民団が、船にのって関門海峡、小樽を経由し、網走港に入港、当時人跡未踏の地であった、北見に入った」

北光社は坂本龍馬の甥、坂本直寛らが設立した団体で、信仰による自由な新天地の開拓を志し、片岡健吉と共に組織した合資会社です。道庁に相談すると訓子府原野を勧められ、オロムシ(現在の大谷地区)に入地したのが訓子府町の定住のはじまりでした。

明治44年に国鉄網走本線が開通し、訓子府駅が開業されると、辺境の地であった訓子府もにわかに活況を示し始め、新しい農村への大きな躍進の時代を迎えることになりました。
大正4年、今の訓子府は置戸村の一部として分村独立し、さらに大正9年、置戸村から独立して訓子府村となりました。

本町の面積190.89平方キロメートルの49.29%が豊かな森林でおおわれており、そのうち36.8%が人工林でカラマツが多く植えられています。

ふるさと銀河線廃線

明治44年、鉄道院網走線として池田(十勝の中川郡池田町池田駅) – 網走間で開業し、池北線、北海道ちほく高原鉄道と経営と改称がありましたが、平成18年4月21日 ふるさと銀河線で廃線となりました。

訓子府町には5つの駅がありましたが、訓子府駅は中心街の駅で有人駅でした。駅舎は農業交流センター「くる・ネップ」として利用され1番ホームは残っております。線路と2番ホームは撤去され公園とバスの転回場に、構内踏切跡は歩道に転用されています。