1799年幕府は蝦夷地を直轄とし、知内から知床に至る地の場所請負い人を廃し、会所・通行屋を設けました。

ユウフツ会所も設置され、1800年には八王子千人頭原半左衛門の弟新助が50人を率いて北辺警備と開拓の目的で勇払に移住します。
八王子千人頭原半左衛門は50人を率いて道東の白糠に移住。
1804年、新助は虻田牧場支配取締役に、手付の者は箱館奉行地役御雇として勤務し、八王子千人同心の屯田は終わりました。

勇払は苫小牧で最初に開かれた土地です。

苫小牧市民会館の前庭に「勇払千人同心」像があり、勇払には勇払開拓史跡公園があって千人同心の墓18基が整備されています。

什長河西祐助の妻・梅は赤児を残して25歳で病没し、祐助は梅の墓に墓碑銘として七言絶句を刻みました。東蝦夷地における和人女性の最初の墓といわれます。
若い女が淋しく雨の降る夜、泣きながら「この児にお乳を下さい」と戸をたたく。開けてみると、すでにその姿はない。夜泣き梅女の哀話が残っています。

 

 

明治43年に王子製紙により苫小牧工場が新設されます。

支笏湖の陸橋は残されています

この工場は世界有数の新聞巻取紙工場で、本格的な製紙工場の始まりでした。
明治41年に王子製紙が千歳発電所を建設するための物資輸送のため、苫小牧工場から支笏湖まで王子製紙軽便鉄道「山線」を走らせ、その後一般客・原木を運びましたが、昭和26年に廃線になりました。

 

 

昭和26年、内陸掘り込み式人造港として建設され、昭和38年に開港された苫小牧港は湾岸貨物取扱量で全道一となりました。