いしかり市名の由来はアイヌ語のイ・シカラ・ペッ( 回流・曲がりくねった)と石狩川のことですが諸説あります。

石狩弁天社

蝦夷の時代、松前藩が石狩場所を設置したのが始まりで、1706年には能登の村山伝兵衛が請負。現在石狩河口にある弁天町には村山家が1816年に再興した石狩弁天社が残されています。
明治時代まで蝦夷の鮭漁獲量の約半分を占めており、石狩13場所の元場所として栄えていました。
この一帯は現在公園になっており、地元の人が観光の案内をしてくれます。

明治4年、岩手県・宮城県から生振(おやふる)原野に29戸、花畔(ばんなぐろ)地区に岩手県から39戸129人が移住しました。
明治29年、花畔・軽川・生振の原野に植民区画が設定、土地の賃付きが許可された翌年、愛知県から56戸が移住して開発が始まりました。
更に、高知県などからも移住者が入り、花畔(ばんなぐろ)村、生振(おやふる)村、樽川(たるかわ)村の三つの村ができました。

現在の石狩川河口

明治35年、石狩郡の石狩川河口付近の10町と生振村が合併して石狩町。
花畔村と樽川村が合併して花川村。

明治40年に花川村と石狩町が合併し一級町村となります。

石狩は砂地のため、畑作や酪農でしたが、水田は悲願で試行錯誤が繰り返され昭和3年、花畔地区の農民たちによって水田耕作に成功、水田は飛躍的に増加しました。
戦後も食料難から造田への意欲は高く、大規模な造田工事で水田地帯にかわりました。

昭和30年代には、札幌市の人口の急増し石狩が大規模団地として注目。
昭和41年から、札幌市のベッドタウンとして団地開発が進み、花川南・北地区を中心に宅地・文教・商業地区となりました。

石狩灯台 喜びも悲しみも幾年月のロケ地

昭和48年から着工された石狩湾新港は重要港湾に指定され、北海道開発庁により策定され、石狩湾臨海地域に港湾を中核とした工業団地、流通拠点を設置することで着工。平成6年に完成しました。

平成8年(1996年)9月1日に、石狩町は「石狩市」となり市役所も親船町から現在地に移されました。

平成17年、厚田村、浜益村を編入合併。

 

石狩鍋

北海道郷土料理としておなじみの石狩鍋は石狩市がその発祥の地です。
サケの身のぶつ切りに、中骨などの「あら」を入れ、野菜は、甘みを引き出すためにキャベツやタマネギを使い、豆腐、ツキコンニャクなどの具材が入り味噌を加え、最後に魚の臭みや味噌臭さを抑え、うま味を引き出すために山椒をかけるのが本場の「石狩鍋」。