蝦夷の時代、この地は藤野喜兵衛の請負漁業地でした。
藤野は紋別・枝幸も所有していましたが湧別の地は収穫高が思わしくなく、漁場の開設地以外は原始のままの状態で獲物を追って転住するアイヌ人の仮小屋が湧別河畔に点在しているだけでした。

明治に入り漁場持制度が廃止となり一般に開放され、明治12年長沢久助により地元民初の着業となります。
3年後、網走刑務所に勤務していた宮城県出身の半沢真吉が、職を辞して農業目的で移住しアイヌ人を使役し開業。大麻・大麦などを栽培していました。
後に紋別戸長に就任したためこの地をさりますが、その後和田麟吉・徳弘正輝が入りました。和田は駅逓業に転向、徳弘も明治20年に中湧別に移住しました。

明治24年、上・下湧別原野の区画設定が行われ、初期入植者のなかには生活のため漁場労働に転向する者、屯田兵村建設工事に従事する者等もあり、土地を放棄する者も少なくありませんでした。

明治30年からは湧別南・北兵村の入植がはじまりました。
これにより、消費・流通も活発化し漁業も進展します。明治30年代からはサロマ湖漁場も開拓され、鉄道の開通で鮮魚輸送の便が開け市場の開拓が進みました。

この頃から芭露(ばろう)を中心にハッカ栽培が盛んになり北見ハッカの四分の一を産し、「湧別ハッカ」「芭露ハッカ」として名をあげました。