浦臼(うらうす)町名の由来は、アイヌ語のウライウペッ(簗・多い・川)の転訛によるものという説があります。

蝦夷の時代の北海道は太平洋側を東蝦夷地とし、北部を西蝦夷地としていました。東蝦夷地にアイヌの人口の6~7割近くが住んでいました。
西蝦夷地におけるアイヌの総大将ハウカセは浦臼を拠点とし高台にある4つのチャシに連接する約250㌶に広がる平坦なコタンの約千人のアイヌを指揮していたという説があります。

1807年(文化4年)、近藤重蔵は浦臼で探索を行っています。

明治20年、樺戸集治監の囚人達によって、月形~ 晩生内(おそきない)間の道路開削。浦臼は月形村に置かれた樺戸集治監の開墾予定地に組み入れられ、明治24年に月形から日本海に至るルートが開削されるに従い、樺戸川駅逓所を開設し、取扱人に長野県人青木六蔵一家が移住しました。開墾は畑・放牧地を合わせ40町歩に至り、農業の先駆けとなりました。
徳島県人の友成壽太郎も農場を創設し徳島県民を移住させます。

坂本龍馬の甥の坂本直寛や実兄の坂本直家の遺品などに併せて、坂本龍馬に関する資料を紹介しています。

明治26年、高知県人の武市安哉らがサツテキナイにキリスト教主義による理想の農村とすべく聖園農場を開設し、軌道に乗ろうとした矢先に武市が急死します。
翌年頃から米作りが始まり広まりをみせ、明治31年に坂本直廣(坂本龍馬の甥)がこの農場に移住、洋館を建てて住み地元の伝導や青年の指導にあたり、後に旭川でも伝導にあたりました。

 

 

明治40年、横田猛馬がりんご園を始めます。大正10年には新宮商行が月形村界に木工場を設置、翌年には綿羊飼育組合を設立し、滝川種羊場から24頭の払い下げを受け飼育を始めています。

戦後は北海道農業改良総合モデル村に指定され、昔から石狩川の洪水に苦しめられていましたが堤防建設、ダム建設も行われ昭和35年に町制施行しました。

基幹産業は農業ですが、鶴沼台にはブドウ畑が広がり、ワインの他、地元米を使った地酒も販売しています。