沿岸からわずか24㎞に国後島が見えます。

蝦夷の時代、1831年に近江国の藤野喜兵衛が請負人となり標津場所が開かれるようになりました。
明治25年、サケマス人工孵化のため標津孵化場が完成し軌道に乗りましたが、ニシンは明治30年から減少しかつての千石場所は衰えます。
明治13年に標津外五ケ村戸長役場2代目となった遠藤勇馬は、不漁のため明治34年に牛乳販売を始め搾乳の元祖といわれています。大正期に乳牛が本格導入され、集乳所もつくられました。

昭和12年に開通した標茶からの標津線も昭和64年(平成元年)に廃線になっています。戦後はホタテの稚貝やチカの移植、ワカメの養殖など育てる漁業を進め人工孵化事業により、標津川には年間40万匹ものサケが遡上しています。

町名の由来は、アイヌ語の「シ・ベツ」「シベヲツ」が標津(しべつ)となりました。「大川または本流」「サケのたくさんいる川」という意味で、いずれも鮭のことです。
日本一の砂嘴野付半島が本町を基部として延びています。

日本一気前の良い町

鮭一本無料

9月には全町民へ鮭が1匹無料配布されます。(標津漁協サケ定置部会提供)
8月と12月には全町民にホタテ(2kg 12~14柱)が、また12月にはバター2個の無料配布も実施されます。(標津漁協漁船漁業部会及び標津町農協提供)
秋には水産加工振興協会のご厚意により学校給食に「いくら丼」がでます。