栗沢町は、空知支庁管内南部にあった町です。
2006年3月27日に、岩見沢の北部にある北村とともに岩見沢市に編入合併されました。
くりさわ町名の由来は、アイヌ語のヤム・オ・ナイ(栗の多い沢の意)の意訳によるものです。

明治19年、石川県人で札幌の酒造家、柴田与次右衛門が柴田農場の賃下げを受け、その3年後(明治22年)に石川県人山下兵吉が入植しています。

平成4年建立 栗沢開基100年記念塔

明治23年、空知集治監の囚人らによって夕張道路が開削されると夕張への通行量が増えました。これにより、栗丘地区が中継点となりました。

そのこともあり、明治26年頃から移住者が入植するようになり、滋賀県人、河路重平を社長とした必成社もその一つで栗沢本町・必成・幸穂地区等の賃下げを受けて西田市太郎を主監として開墾に当たらせました。

同じころ、礪波地区には富山県礪波郡の本田幸彦ら108戸が移住しました。

昭和47年に町の無形民俗文化財として指定された礪波獅子舞は、彼らが開拓も落ちた明治39年に礪波神社の新社殿造営の際、越中獅子舞を奉納したものです。

 

美流渡神社

万字地区はアイヌの猟地でした。
明治初期ケブロンらによって鉱山技術がもたらされ石炭の需要が高まります。
万字炭鉱は三井・三菱財閥の大番頭朝吹英二を経て北海道鉄道会社が譲渡を受け、明治38年に開鉱となり好況時には美流渡も含めて12の炭鉱がありました。
万字というのは朝吹家の家紋「卍」から取られたものです。
しかし、いずれも同じで昭和51年に閉山、大正初期から走り続けた万字線も廃止となりました。

栗沢クラインガルテン

栗沢クラインガルテンは1998年(平成10年)にオープンしました。
野菜つくり、花つくりを通して自然と人とのふれあいを深めていくアグリプレーイングゾーンです。滞在型や日帰り型の市民農園をはじめ、花やハーブなどの栽培ゾーン、自然環境の森、いも掘りなどができる体験農園、米づくりを知るための学習田などを備えた道内初の画期的な農業体験施設です。
管理棟の『土里夢館』(ドリーム館)は農産物の加工施設や調理実習室などを備えた交流・情報交換の拠点となっています。