慶長年間(1596年~1615年)、絵鞆半島の先端で松前藩のエトモ場所が開かれ、アイヌとの交易が行われていました。

しかし、1700年代ごろから外国船が来航するようになり、蝦夷地は大きく変わっていきます。
蝦夷は徳川家康以来、松前藩の独占マーケットで他の藩は何人たりとも奥地に入ることはできませんでした。この独占が徐々に崩れていきました。

1855年幕府は南部藩に恵山岬~幌別までの海岸一帯の警備を命じ、現在の陣屋町(当時はペケレオタ)に出張陣屋を設定しました。今日もこの陣屋跡は土塁や濠跡などが残されています。

明治に入り、仙台藩角田領主石川邦光は新政府から室蘭郡支配を命じられます。
戊辰戦争で所領を失い、家中7000人余が路頭に迷う中、主君の命を受けた泉麟太郎が明治3年に51人を引き連れて移住しました。

さらに第二陣として300余名の移住を計画しましたが、室蘭郡支配を免じられ、片倉邦憲と伊達邦成に分割されます。
片倉邦憲は仙台藩白石領主で現在の登別市(幌別)に入植。
伊達邦成は仙台藩亘理領主で現在の伊達市に入植。

しかし、その後も角田藩の第一陣は室蘭に定着。
石川邦光の弟、光親を迎え、明治14年に第二陣211人が移住しました。
養蚕、農牧場などを設けましたが、室蘭の農業に限度を感じ、泉麟太郎は新天地の現在の栗山町へ赴くことになります。

屯田兵村

明治20年、輪西村に鳥取・愛媛・兵庫県から屯田兵110戸が入植しますが、泥炭地や海霧に悩まされ困難を極めました。

明治5年に室蘭港が開港し、札幌~室蘭間に道路を開削され石炭積み出し港として発展をしていきます。

室蘭の歴史に関しては、蝦夷の時代からを下記に書いてあります。
北の美術館 観光客が行かない室蘭市の旅(前編) 2020年2月  通算72号 
北の美術館 観光客が行かない室蘭市の旅(後編) 2020年3月  通算73号