大樹町のはじまりは砂金からはじまったと言っても良いでしょう。

1635年歴舟川で砂金が採取されて以来、ゴールドラッシュとなりピークが1899年(明治32年)頃で掘り子も200人を超えたといいます。
明治・大正・昭和と続けられ、昭和24年に神威産金株式会社を設立。しかしながら企業化にはいたりませんでした。
今でも歴舟川では砂金掘りを楽しむ人々が訪れています。

当縁(とうべり)に十勝会所の番屋が置かれましたが、出稼ぎ労働で漁期にサケを漁するだけでした。
明治に入り場所請負い制度も終わり十勝組合の解散後、漁場は一般に解放され十勝沿岸に和人の入植が進みました。

現在の帯広市に入植した晩成社の依田勉三は他と別れて明治19年に当縁のオイカマナイに土地を入手し、牧畜業を始めました。

明治26年に北海道移民協会が設立され、十勝には大津に協会の移民取扱員が駐在。
十勝への移住者も増加し、大正2年滝川~釧路間の鉄道が開通し、8年後には根室本線が全通します。

明治24年頃、カシワの樹皮から渋をとり、これをなめし皮を作るためのタンニンの原料にかる製渋事業が始まり、これが新田ベニヤの前身となりました。
新田は大樹産のカシワの樹皮を大阪へ移入させていましたが、さらに樹皮を剥いだものからベニヤを製造し、明治40年代幕別に製革製造所を創立、小作人を入植させ4000町歩を開墾させ、これが新田農・牧場です。

大樹の乳牛導入は明治34年頃といわれ、昭和に入ってから飼育頭数が増加、大樹村乳牛五か年計画が策定され、やがて雪印乳業大樹工場の設立に至りました。

十勝有数の酪農地帯で、約2万頭の乳牛を飼育し乳製品も販売されています。

昭和3年に広尾町から分村し、昭和26年町制施行となりました。

晩成社の依田勉三はこちらです。
北海道ゆかりの人たち「依田勉三」