あっさぶ町名の由来は、アイヌ語でアッ・サム(楡皮・のそば)など諸説あります。

天正年間(1573~)から、この地の下方に5集落ができヒバの伐採がはじまり定住者が増えます。ヒノキ山での稼ぎと農耕を行い、徐々に開発が進みます。
1678年松前藩のヒバ(ヒノキアスナロ)山開放により、伐採のため本州から杣夫(そまふ)が渡来。農業を副業として定着し、各河川流域の開墾が始められました。厚沢部はヒノキアスナロ自生の北限に近い場所でした。

鶉キャンプ場

文政年間(1819~)に目名に駅場が設けられ、交通の要衝となり奥地の開発がすすみます。安政年間(1855~)には鶉山道の開削が行われました。
江差地方の富商・鈴鹿家は代々甚右衛門を名乗り、6代目が鶉山道を敷設したものです。この山道により館地区の開発も進みました。

 

 

松前藩城跡

明治2年、榎本武揚率いる旧幕府脱走軍が松前藩の福山城を攻略。
松前藩主らは現在の厚沢部町館に新城を建設を進めたが、旧幕府軍の攻撃で着工75日で落城し松前藩時代の事実上の終わりを迎えました。藩主らは海路対岸の津軽半島に避難、その後藩主は亡くなりました。

明治5年、北海道開拓使管轄となり、明治9年俄虫村戸長役場を設置。
農地開発がはじまり団体入植も続き、東北、新潟・石川県などから移住者が相次ぎました。

直径約2m!これが世界一大きなコロッケ

大正14年には道庁立桧山農事試作場で初めてメークインが試作され、今も発祥の地の碑が立てられています。
あっさぶの夏祭りは、特産品のメークインを使用した直径約2mという世界一の大きさを誇るコロッケが、大型クレーン車と巨大フライパンを使って会場で揚げられ、うまく出来れば来場者に振る舞われます。
厚沢部川で採れた鮎の塩焼きなど数多くの屋台が出店し、町自慢の味覚も勢揃い。キャラクターショーや歌謡ショーなどのプログラムもあって、大人も子供も楽しめる厚沢部町最大のお祭りです。

道の駅

厚沢部川と安野呂川の流域の平坦部は地味が肥沃な純農村地帯で、メークインの他、マメ類・メロンなどを産し、観光農園も営業、メークイン焼酎やワインも販売されています。
また、町の面積80%が森林という森林資源を持ち、ヒバや五葉松の北限で、トドマツの南限という植生を持っています。自生する五葉松の林は国の天然記念物に指定されています。