利尻地名の語源はアイヌ語のリ・シㇼ(高い・島)から。
島の東半は利尻富士町、西半は利尻町になり、島の大部分は利尻礼文サロベツ国立公園に指定されています。

利尻島は火山活動によってできた火山島です。
この島に人が移り住んだのは旧石器時代末期のことで、縄文時代中期から島に渡って海の生物を食料源にして暮らしていたとされています。

1669年(寛永9年)のシャクシャインの戦いが記されている「津軽一統志」に、利尻のアイヌ人は松前藩の交易船が今まで通り来てほしいと収録されています。
というのは、その後、利尻場所が設けられ、アイヌ人は近江商人たちに請け負われ、ニシンやタラ、コンブなどの労役として使われたからです。

時雨音羽の碑

1808年、ロシアの襲撃から北を守るため、利尻島には約250名の会津藩士が警備しており、沓形字種富町に亡くなった2名の藩士の墓があるといいます。

昭和31年に利尻島内の四つの自治体の中から仙法志村と沓形町が合併し利尻町制を施行しました。明治32年に沓形村、翌年仙法志村に戸長役場が置かれ、実質的な自治行政が始まり、島内でいち早く沓形港築港にとりりかかり、小樽との離島航路が就航しています。

利尻島の最南端に位置する仙法志の海岸線には岩場が続き、奇岩の点在する景勝地になっています。ニシン漁当時の袋澗を整備して御崎公園が作られ、散策路が設けられ聳え立つ利尻山を見れます。