酪農と水産を基幹産業とした町で、特に畜産は牧草地面積、乳牛飼養戸数・頭数、生乳生産量などは日本一のレベルです。

しかし、ここまで来るには長い歴史がありました。

伊能忠敬最東端の碑

蝦夷の時代には、野付場所として漁業で開けた町でした。
野付の支配人で秋田出身の加賀屋伝蔵が安政年間に野付付近に開墾し畑作を行っていたといわれています。

ところが、根室地方は漁期だけに入地し永住が少なかったことから、明治に入り開拓使は明治3年に漁場持ちに命じて、永住して漁業を営む者を募集し、野付へ10戸移住させました。

しかし、内陸は植民地区画がなされたまま未開状態が続き、北海道Ⅰ期か拓殖計画が終了した後も尚第二期拓殖計画が行われ、手厚い保護が加えられたため、移民は急激に増えました。
それでも冷害・凶作が続き、農業政策の転換を迫られた結果、乳牛を主体とする主畜農業に転換させる根釧原野農業開発五か年計画が昭和8年から行われることとなりました。

戦後は、昭和30年頃から床丹原野に国家プロジェクトで機械開墾のパイロットファーム(試験農場)事業が始まり、酪農近代化への第一歩が踏み出され、昭和48年からは国家プロジェクトとして935億円余の巨費を投じて、新酪農建設事業がスタートし農業施設・機械の大型化、近代化が一層進行し全国一の酪農王国として発展を遂げることとなりました。