熊石町は平成17年に太平洋側(噴火湾)にある八雲町と合併。
檜山振興局の管轄でしたが、八雲町になったので渡島総合振興局となります。
檜山は北部のせたな・今金と乙部・江差の南部に二分され飛地となりました。

くまいし町名の由来は、アイヌ語のクマウシ(魚を干す竿のあるところ)の説があります。

せたな町大成区からポンモシリ岬を越えると旧熊石町に入ります。
ポンモシリ岬を越えると関内ですが、この地は元禄4年(1691年)に番所が設けられていました。

蝦夷地における和人が増えるにつれ、アイヌと和人との紛争が頻繁に起こるようになりました。そこで松前藩は道南地方を和人地とアイヌの蝦夷地に分けて、摩擦を避けようとします。
熊石がその境界にあり、相沼に関門を設け、番所を熊石におき「関内」を境として蝦夷地との交流をおこないました。
この時点で熊石は明治に至るまで「日本の最北端の地」とな」りました。
従って松前藩との関わりも深くなり、門昌庵事件やアイヌとの戦いの伝説が残されています。

門昌庵事件

門昌庵本堂

これは松前家の菩提寺住職柏巌峯樹和尚蠣崎一族の権力争いに巻き込まれ、女色ありとの讒言により熊石に流刑を命ぜられ翌年の延宝6年(1678)斬首されました。その時、川の水が勢いよく逆流し、突然の嵐になる等の変異が続き、祟りを恐れた藩は柏巌和尚の首を庵の側に手厚く葬りました。この庵は柏巌和尚の号をとって「門昌庵」と呼ばれ、以後松前藩は丁重に取り扱い、供養を続けたそうです。この事件を俗に「門昌庵事件」といいます。

 

 

奇岩雲石伝説

奇岩雲石の解説

アイヌと和人の戦いにまつわる伝説です。約450年前、アイヌと松前藩の抗争があり、アイヌに追いつめられた松前藩が岩陰に身を隠そうとします。その時、雷鳴とどろき、黒雲が巻き起こり、この怪奇さに恐れをなしてアイヌは退散し、松前藩は九死に一生を得たと伝えられています。
この岩が奇岩雲石として熊石港の西に威容を誇っています。(トップの写真)

鰊漁による蝦夷地の繁栄は江戸や大阪等にも北前船をとおして伝えられ、熊石にも当時の新しいたくさんの文化が伝わってきていました。
しかし、松前から鰊漁が江差、乙部、熊石と北上し、とうとう鰊漁が慢性的不漁
に陥ると、蝦夷地に和人が北上し漁労に出るようになっていきます。