有珠善光寺

有珠の善光寺開基は826年に比叡山の僧、慈覚大師が阿弥陀仏を安置した時とされています。
これはいかにも古い話ですが、1613年に松前藩の祖・松前慶広が有珠に至り祈祷所として如来堂を建てたことに始まります。

その後、蝦夷地に江戸幕府が介入してくると1804年に現在の伊達市・様似町・厚岸町に3つの寺を建てます。この「蝦夷三官寺」の一つに有珠の善光寺が当てられました。

 

亘理領主伊達邦成

伊達邦成(だてくにしげ)

古い歴史を持つ有珠に本格的な開拓が始まるのは明治維新後でした。

伊達一門亘理(わたり)領主伊達邦成は戊辰戦争に敗れ朝敵とされ大幅に減封になります。
亘理領は2万4千石から58石に削られ、領地は南部藩支配となり、帰農すれば刀は持てません。
1360戸、7800人の領民を食べさせていくことは到底できません。

 

邦成は家老のの提言を受け入れて、北海道開拓の願いを太政官に提出しました。

田村顕允(あきまさ)

明治2年8月初めに許可が出ます。
ただし、この時の北海道移住者には政府からの支援金はなくすべて自前で用意しなければなりません。
10月、邦成は有珠に赴き、先発の顕允に迎えられて支配地を調査しました。
第一回の移住者220人は家を処分するなど資金にしました。邦成も自らの書画、茶器、家具や文房具、弓や銃、刀剣まで売却します。

第一陣

第一陣が有珠に到着して有珠郡支配所の開所式が開かれ、邦成から直書が公布されます。(この時には邦成は同行しておりません)
そこには、アイヌ民族に対して、次のように記されていました。
1、欺き偽り玩弄すべからざる事
1、みだりに出入り相難成事
邦成が先住者に対して心を砕いていたかがわかります。

第二陣

二回目の移住は到着が遅れたため開墾もできませんでした。更に、この年は収穫も少なく、大根と薯だけの苦しい日々でした。

第三陣

貞操院保子

邦成は田村顕允から事情を聞き、第三陣移住で現地に赴くことにしました。
その時、義母の貞操院保子も同行すると述べます。これには人々は感激し移住者は700人に達しました。
保子は粗末な家で起居し、家々を回って励まし、桃の節句には花嫁道具に持参したひな人形を飾り、甘酒を振舞ったといいます。
移住はその後、明治14年まで9回にわたり続き、合計2651人が移住しました。
こうして新しい町、伊達市が作られました。