三笠(みかさ)市名の由来は、明治時代に存在した空知集治監の建物の裏山が奈良の三笠山に見えることから、囚人が望郷の念をこめて三笠山と呼んでいたことから付けられた名です。

炭鉱都市として栄え、最盛期には6万人を超える人口を抱えていました。
しかし、北海道で最古の坑内堀炭鉱の一つである北炭幌内炭鉱が、1989年(平成元年)に閉山したことで経済が著しく衰退。

三笠の始まり

明治元年、杣夫(きこり)の石狩村の木村吉太郎が幌内で石炭を発見し、その後調査が入ることになりました。
(蝦夷の時代に、飛騨国岐阜県の飛騨屋久兵衛は蝦夷一円で伐採をしていました。ユウバリ山、幾春別岳にも入っていたといいます)

市来知神社(明治45年)

明治15年、前年の樺戸集治監に続いて空知集治監を市来知(いちきしり、現在の三笠)に設置されます。
ここでは幌内炭鉱の開発を主たる目的でした。

炭山出役の他に道路の開削、農地の開墾、屯田兵屋の建築、水道施設の建築なども行っていました。

囚人の合葬の墓が柏町墓地に隣接した史跡公園にあり、1158人が埋葬され「千人塚」呼ばれています。

三笠鉄道村(旧幌内駅)

明治16年から石炭を採堀し、搬出のため幌内鉄道も開通しましたが、事故も多発し死亡者は300人ともいわれています。
その後、幾春別(いくしゅんべつ)炭鉱、奔別(ほんべつ)炭鉱と開坑。
明治39年、市来知・幌内・幾春別の三村合併のときに三笠山村となります。 

その後、戦中・戦後好況に湧き昭和17年に三笠町が誕生。
昭和32年に三笠市(北海道内で22番目の市)となりました。

昭和40年代から次々と炭鉱が閉山、昭和57年に閉山した北炭夕張炭鉱の離職者を受け入れましたが北炭幌内炭鉱も平成元年に閉山しました。
市は三笠工業団地を造成し地域の振興策を進めています。

三笠山 (トップ写真は三笠山の入り口)

明治15年に空知集治監が設置された際、奈良の三笠山(現在の若草山)に似ていることから「三笠山」と呼ばれるようになりました。
現在では「観音山」とも呼ばれています。
これは大正2(1913)年に三笠で大凶作が起こった際、村人たちが再び凶作が起こらないよう観音像(地蔵尊)を大正4年に祀ったことに由来しています。