せたな町は、平成17年9月1日に北檜山町・瀬棚町・大成町の3町が合併しました。久遠郡せたな町の合併特例区の一つ北檜山区となり、せたな町の本庁舎は旧北檜山町役場に置かれています。

1622年、太櫓(ふとろ)が「布登呂場所」として和田市兵衛の知行地になりました。1705年に場所請負制となり、初代請負人は輪島屋太右衛門で明治2年まで続きました。

和人の移住は1809年で太櫓場所に出稼ぎに来た江差の虎次郎が漁業を営み定住したといいます。

明治5年から漁業を目的とする者が多くなり、移住者は裏山を開墾していました。

明治16年に吉川新左エ門が字小川に移住し農業に従事、翌年には徳島県の大東伊太郎が21戸80名を率いて瀬棚に上陸、現東瀬棚、兜野に移住し、これが最初の集団移住者でした。

丹羽五郎

丹羽五郎像

福島県旧会津藩士の丹羽五郎は警察署長を務めていましたが、20年にわたる警視庁の職を辞して、明治25年(1892)春渡道。
丹羽地区に入植し、同志大関栄作や丹羽弥助の協力を得て、人跡未踏の原始林と戦い、身の丈を越す熊笹を征服して、移民を叱咤激励し理想郷づくりに邁進しました。
五郎は、農事の改善を図り、品評会を開き、畜産を奨励し、協同組合活動にも力を注ぎ、私財を投じて村の基本財産を造成。
公共事業にも熱意を注ぎ、小学校や郵便局等の各種施設を完成させるなどして、遂に後志利別川流域に「理想郷丹羽村」を創出しました。

ニシンが豊漁だった明治期を過ぎると不漁となり、イカが漁業を支え、大正から始められたサケ・マス孵化事業も戦後になり拡張を行いました。

茂津多岬灯台

昭和28年東瀬棚町制を施行し、2年後に太櫓村と合併し北檜山町となりました。

狩場山や遊楽部岳登山への玄関口で、登山口付近の熊戻り渓谷、灌漑川の真駒内ダム湖や大小十数個の浮島が点在するうぐい沼などは豊かな自然を満喫できる町です。