春が来ていた時の襟裳岬

4月の20日を過ぎてからHPのアクセスが急上昇しており、大変嬉しく思っております。
前回は「あ、犬だ」で、アイヌ民族に関連してでしたが、今回は「えりも町の旅」を見に来てくれる人たちでした。
日高本線の廃線を知り、かつて襟裳岬を訪れた人たちがアクセスしてくれたのでしょう。
私も忘れていたことを思い出し「えりもの旅―続編」を書きました。

NHKプロジェクトXの主人公「飯田常雄」に会ってみたくなり、襟裳を訪れたことがあります。

襟裳岬に近いユースホステルに宿をとりました。(今はありません)
このユースは積丹半島神威岬のユース経営者が開設したのが始まりで、ユースの業界では良く知られた第一人者でした。
訪れた時は伝説のペイレント(経営者)は亡くなっていましたが、飯田さんに会いたいと言うと連絡をしてくれました。しかし、病で寝た状態ということで会うことはできませんでした。

ところが、そこにNHK室蘭支局のアナウンサーが取材に訪れました。番組で「襟裳岬」を取り上げるということで、ユースを伝手つてに人物の取材に来ました。どういう経緯か、もう20年以上も前のことなので忘れましたが、これに私も同行させてもらうことになりました。

訪れた先は「元小学校の校長先生」の自宅でした。昭和40年代に年間40万人の人が押し寄せた当時の状況を聞かせてもらうもので、映像になる前の取材段階でしたが意外な話を聞かせてくれました。校長といっても、田舎のことですから在校生5人です。
当時の旅行者は岬に到着するのが精いっぱいで泊まるのが当たり前でした。その拠点となったのが襟裳ユースホステルです。とても正常の状態で寝泊りできるものではなく、廊下、土間、屋根の上まで寝袋を持って上がる始末だったといいます。校長はユースが近かったので良く訪れていました。

若者が話す言葉を聞いて愕然としたといいます。
「襟裳まで来たのに記念になるモノが何も無い。あるのは沖縄の砂ではネ」この言葉に「何か襟裳にしかないお土産を造ろう」と考えました。ユースに集まり商品開発がはじまりました。何せ訪れる七割は20歳前後の女性です。
そうして造られたのが拾うと幸せになれる蝶々(チョウチョウ)貝でした。

ユースから歩いて10分ほどのところに「百人浜」があります。
「盛岡藩の御用船が遭難し、乗組員の遺体が浜に流れ着き、助かった者も飢えと寒さで亡くなり100人余りが犠牲になった」という歴史で名付けられた浜です。
この浜では変わった貝殻を拾う事が出来ました。楕円形で小さなアワビの様な形をした「オオバンヒザラガイ」と言う貝です。
この貝は1枚では無く、8枚の蝶々の形をした貝殻が縦に並んでおり、死んだり、カモメに食べられたりすると、その蝶々の形をした貝殻がバラバラになり百人浜などに流れ着きます。大きさは2〜3cmのサイズでした。

この蝶々貝でネックレスやブローチを造ろうとなりました。これであれば、自分でも造ることができるので浜に出て拾う楽しみもある。そうして、ユースの一角を工房にして造り方を教えればよい。 
これが、大いに受けて人気になったと懐かしそうに話してくれました。ユースに戻ると、お土産コーナーに蝶々貝が並んでありました。
その後、撮影班が入り10分ものとして朝の番組で放映されていました。

飯田常雄さんに会うことはできませんでしたが、その後もユニークな神主や襟裳牛を育てる家族にも会いました。

「広尾町の失われた風景(昭和40年)」の記録映像を見ると、十勝の帯広駅始発の広尾線終着「広尾駅」は観光客で溢れ、バスに乗り換え、黄金道路で車窓を楽しみ襟裳岬に向かいます。襟裳岬は日高本線の様似駅からだけではありませんでした。かつて、広尾駅と様似駅を鉄路で結ぶ計画は明治のころから何度も議会で検討されていました。