露西亜使節ラクスマン、大黒屋光大夫を連れて根室へ

クナシリ・メナシの戦いから3年後の寛政4年9月3日(1792)、ロシア使節ラクスマンが、伊勢の放流民「大黒屋光太夫」ら3人を伴って、根室と標津の中ほどにあるパラサン(別海町茨散)沖7.5キロの海上に現れました。

異国船の名は、当時のロシア女帝と同じ名「エカテリーナ号」。
42人が乗船していました。一行はいったん上陸し、アイヌや日本人と接触し、越冬することを目的に根室港へ向かい、そこで錨を下したのです。

根室では松前藩から派遣されていた熊谷富三郎が一行の対応にあたります。上陸後、漂流民の送還が渡来の目的であることをしたためた「松前藩主宛文書」を提出します。
しかし、それは建前で本当の目的は、日本と通交・通商関係を結ぶことでした。彼らは越冬するために、ロシアから持参したガラスを使って窓のある家を建て、ロシア風の蒸し風呂も設置、自然科学的・地理学的調査として、根室の海洋物や動植物などを採集し、港の測量も行いました。
また、日本人とアイヌの関係を詳細に調べようとしますが、これは日本人側の妨害もあってスムーズに進みません。

9月22日、千島を調査中の松前藩士工藤庄右衛門らが根室に立ち寄り、ラクスマンらと様々な情報交換をします。ロシア人が持っている世界地図を写し取ったり、ロシア語から日本語への翻訳、ロシア船の模型をつくるのを手伝ってもらったりと、共同で作業を進めるものもありました。

そうして、11月27日には蝦夷地に来ていた幕府田辺安蔵らがやってきて、光大夫などから聞き取り、日本初の日露辞典「露西亜語類」を作成します。

当時ラクスマンは、江戸で幕府と直接交渉することを希望していました。しかし、幕府は宣諭使(幕府の命を受けた対外交渉人)を松前に派遣し、現地で交渉することにします。

年が明けて6月21日、幕府の宣諭使である石川将監、村上大学とラクスマンとの最初の会談が松前で行われます。これが史上初の日露による正規会談となりました。幕府は「ロシア使節に対して、漂流民送還の労をねぎらい、今回に限り松前において漂流民受領の用意がある。なお、望むところがあれば長崎に至るべし」という内容の「国法書」がラクスマンに渡されました。

6月24日の第二回会談では、ラクスマンがイルクーツク総督ピーリの公文書を渡そうとしますが、日本側は受け取りを拒否。日本側は長崎で通交交渉を行うように伝え、漂流民の受領を承諾します。最後となった3回目の会談では、長崎への通行許可証である「信牌」(貿易許可証)を渡しました。