江戸幕府は近藤重蔵たちの調査に基づいて、寛政11年(1799)東蝦夷地を幕府直轄とし南部・津軽の2藩に警備を命じました。

箱館に蝦夷奉行(後に箱館奉行改称)を置き対外警備にあたります。
そのためには、迅速に兵を送るために箱館から根室に至る陸路の必要がありました。近藤重蔵の山道開削に続いて、様似山道・猿留山道を開削します。これで、現在の十勝の広尾~えりも~様似~浦河と道ができました。
更に、松前藩に命じて内浦湾の礼文華峠を開削させ、クスリ(釧路)までを馬で行けるようになりました。
川には橋か渡船が用意され、宿泊・人馬の継立用に駅逓が置かれ、有珠には馬育成の牧場も設けられます。

西蝦夷地の交通条件も、幕府の直轄後に改善されました。

幕府が東蝦夷地を直轄してまもなく、伊能忠敬は東蝦夷地沿岸を測量します。後に門人の間宮林蔵が西蝦夷地を測量し、伊能は亡くなっていましたが弟子たちが合わせて蝦夷地全図(現在の北海道地図)ができあがりました。
サハリン(樺太)の調査も進められ、間宮林蔵の探検で樺太が島であることが確かめられます。これは文化6年(1809)のことで、樺太は北蝦夷地と称することとなりました。

北海道ゆかりの人たちに、「伊能忠敬」と「間宮林蔵」を書いています。合わせて読んでください。

写真は山道、様似町の様似山道とえりも町の猿留山道は国指定史跡です