松前藩はロシアがカムチャッカ半島を南下していることを知っていました。しかし、知らないふりをして場所請負制を続けるしかありませんでした。

江戸幕府がロシアの南下を知ったのは1771年のことです。その情報はオランダから長崎を経由して入ってきました。
シベリアの流刑地から脱走したハンガリー人のベニョフスキーの報告が伝えられたのです。しかし、江戸幕府も、この情報をなかったことにして取り組もうとはしませんでした。

ロシア南下の噂が日本国内に流れ出し、仙台の医師工藤平助が「赤蝦夷風説考」(1783)を書きました。
これを読んだ老中・田沼意次は、北方探検と開発を思い描きます。
1785年、幕府の探検隊はクナシリ・エトロフ・ウルップ島へ、
またサハリン中部のクシュンナイまで至りました。そうして、幕府は試験的に御試交易を行ったりもします。
ところが、田沼は失脚し、寛政の改革の松平定信は、当初蝦夷地は日本国ではないので関心もなく鎖国政策に戻そうとしました。

松前藩は1760年ころから財政が悪化し、松前に進出してきた木材商人の飛騨屋から大量の借金をします。
ところが、借金を返す気のない松前藩は、その代わりに1769年に、飛騨屋にエトモ(室蘭)、アッケシ、キリタップ、クナシリ場所の請負を認めました。
更に、松前藩は懲りずに飛騨屋に借金をし、1773年にソウヤ場所を15年間、請け負わせることにします。
蝦夷における火種はどんどん大きくなりました。