第8代目藩主松前道広(みちひろ)

7代藩主・松前資広の長男として誕生。幼少より文武に優れ、派手好きで傲慢な性格であったといいます。明和2年(1765年)10月11日、父・資広の死去により11歳で家督を相続。同年10月15日、10代将軍・徳川家治にお目見え。

一橋治済、伊達家・島津家など反幕閣の人々や国学者で幕府から目を付けられていた高山彦九郎と交友し、吉原の遊女を妾にするなど遊興費も多く、そのため商人からの借金がかさんで藩政は窮乏、幾度も幕府から注意を受けたといいます。

対外的には強硬で、ロシアからの通商要請を拒否。
寛政元年(1789年)には、国後島や目梨地方で起こったアイヌの反乱(クナシリ・メナシの戦い)に新井田正寿・松井広次らを派遣して鎮圧。
寛政4年(1792年)10月28日、27歳で隠居し、長男・章広に家督を譲ります。
これは幕府からの命令でもありました。

寛政8年(1796年)、イギリス船・プロビデンス号がアプタ沖(現虻田郡洞爺湖町)に出没した時も、既に隠居していたにも拘わらず、息子の章広や家臣の反対を押し切り出陣。
文化4年(1807年)、藩主在任中の海防への取り組みや素行の悪さを咎められて、幕府から謹慎(永蟄居)を命じられます。この背景には元家臣の讒言があったとも言われています。
天保3年(1832年)6月20日、江戸で死去。享年79。主君は徳川家治・家斉でした。

写真は松前道広の船上に張る幕(白地に紺)