松前藩代7代藩主資広(すけひろ)は、6代藩主邦広の長男として誕生します。
8代将軍・徳川吉宗にお目見えし、寛保3年(1743年)8月16日、父・邦広の死去により、17歳で家督を相続しました。主君は吉宗・家重・家治となります。

蠣崎波響(1764~1826)は、資広の5男で蠣崎家の養子となりました。
1807年松前藩は福島県梁川に転封し、蠣崎波響は家老として領地回復に努力すし、画の制作活動をおこない資金調達のために精力的に活動します。

父の政策をうけつぎ,倹約令をだし,税制の改革,交易場の開発につとめますが、特に大きな動きはありません。

延享2年(1745)、資広(すけひろ)は、中納言八条隆英の娘を正室に迎え、城下の人々は彼女を「京御前様」と呼んで尊んでいました。

伝説

資広が参勤交代のため江戸にいたある夜のことです。
京御前は何かに誘われるように外へ出て、ふと気づくと町外れの池に来てしまいます。ふと見ると、池のほとりには男がこちらを向いて立っていました。
京御前は懐中の剣を握り締め、身構えながらも「今夜はもう遅いので、明日もう一度逢いましょう。何か証拠の品を持ってきてください。」と述べ、戻ってきました。

翌日、京御前は縁側で琴を演奏していると、夕暮れ時に瞬く間に雲が空を覆い、稲妻が光り、燈火が揺れます。その時、垣根越しに長い手がにゅ~っと伸びてきて、その手はお皿一枚を持っていました。
京御前は微笑みながら琴をやめ、左手でその贈り物とおぼしきお皿を受け取ると同時に、右手の懐剣でその長い手を突きました。
「ぎゃー!」と物凄い大声が響いて、驚いた武士たちが駆け寄ると京御前は無事で、血を滴らせて逃げる妖怪の後を追います。すると、京御前が昨晩誘われた池のほとりまでたどり着き、池は真っ赤な血で染まっていたといいます。
それから、この池は手長池と呼ばれました。

手長池の主が松前資広の夫人を誘惑しにきましたが、池の主が夫人に献じた青磁色の皿は法幢寺に蔵されました。法幢寺に夫人の墓があります。

明和2年(1765年)3月19日、松前資広死去。在任22年 享年40。

写真は松前町にある法幢寺(ほうどうじ)