松前藩6代目邦広は、徳川吉宗を主君として仕えた藩主になります。
旗本松前本広の三男で、五代目矩広(のりひろ)の養子となり、享保6年(1721年)7月11日、養父・矩広の死去により、家督を相続し17歳で六代目となりました。

矩広の代に家老職を巡る一門間の対立は顕著化していました。邦広はこれに対し、家老職から外れた非主流の一門を補佐的な役職であった中老に就任させて、権力の均衡を図り、政策実行の体制を作ります。
同時に町人、郷への支配体制を再建するために寺社奉行所の人事を刷新しました。

享保12年2月16日、幕府から五・六年に一度の参勤交代の許可を得ました。
邦広は整備された政治基盤を元に、倹約令をだし財政再建を推し進め、税制改正、問屋の株仲間化、それによる沖の口番所業務代行の認可と手数料の徴収により、商業と交易への支配力を強化します。

この時期はニシン漁業の発展に伴って蝦夷地の物流が活性化した時期であり、藩の主な収益はアイヌ交易と砂金採取から、請負商人の支払う手数料へと比重を移していきました。
藩の財政は再建されたが、請負商人と藩は癒着関係を深め、肥大した商人の役割はやがて藩及び領民との摩擦となり、漁民一揆、公訴の乱発、アイヌ蜂起を招くことになります。

寛保(かんぽう)元年(1741)、渡島(おしま)大島噴火にともなう大津波で多くの村が流失しました。
寛保3年(1743)閏(うるう)4月8日死去。在任22年 享年39歳でした。

参勤交代 

大名は1年ごとに国元と江戸を往復(2年1勤)するが、松前藩は例外でした。元禄年間までは3年に一度でしたが、文化4年(1807)に陸奥梁川(福島県伊達市)へ転封するまでは5~6年に一度、文政4年(1821)の松前復領後は5年に一度と、時代によって変化しました。

参勤経路は当初、小泊(中泊町)に上陸し、西浜街道~羽州街道~奥州街道を経由するルートをとりますが、その後、下船の場を三厩に変更し、松前街道(上磯街道)~青森~奥州街道を経由するルートが定着したといいます。
松前街道(上磯街道)とは、北海道ではなく津軽半島の陸奥湾沿いに今でも残っており三厩~青森の間の旧街道をいいます。

その部分も含めて、奥州街道というので日本一長い900キロとなります。
途中にあった宿場は114宿。東海道53次や中仙道69次に比べても、その長さが分かります。

松前藩の参勤交代は、天候にもよりますが、早いときで26日、遅いときは40日もかかりました。奥州街道といえば江戸時代の五街道の1つで、江戸から福島県白河までと思っていましたが、これは江戸幕府が直轄した街道で「奥州道中」と呼ばれた部分です。実際は、その延長上も含めて松前藩が参勤交代で歩いた三厩から日本橋までの間が奥州街道といいます。

写真は三厩にある「松前街道終点之碑」奥州街道の終点