松前藩の総大将松前泰広は、総勢630人にのぼる藩始まって以来の大軍団を3陣に分けて、シブチャリ(静内)をめざして出発させたのです。
装備は150丁をこす鉄砲のほか、短筒8丁入り4箱、大筒2門という、ものものしさでした。

戦いに加わったコタンの者たちに制裁し、二度と松前に背かぬよう誓わせながら、ウス(有珠)まで進んできました。
静狩では、捕虜としてとらえた9人のうち4人を鉄砲で見せしめにしました。

総大将松前泰広には焦りがありました。
冬が迫らぬうちに始末をつけたい。そのためには、理屈はいっさい無用。手段はかまわない。年内までに始末をつけられなければ藩があやうくなるということです。

10月に入ってまもなく、西方のピポク(新冠)に、佐藤権左衛門のひきいる第一陣が到着しました。
静内の砦で軍議を練っていた首長たちに耳を疑わせる知らせが入ります。
西方の総首長ハロウたちは、それぞれ100品以上の宝物をつぐないに差し出して投降したというのです。西方までが松前につくとなると、いくら強がりをいってみたところで苦戦は免れません。 

松前軍は、第一陣の到着から数日後、総大将松前泰広や蠣崎作左衛門をピポク(新冠)にむかえ、蠣崎蔵人の第2陣、松前儀左衛門の第3陣とも合流しました。
夜ともなれば、そのかがり火はかぞえきれなく、進軍の途中に投降したアイヌ軍も加わっていました。

1669年6月14日に始まったアイヌ民族の蜂起は、10月も中旬を過ぎて冬がそこまで来ていました。しかし、松前軍は砦の攻撃を決断しかねていました。
大筒を射込んでも、砦の上部まではとどきません。攻撃に出れば、わが方も甚大な被害をこうむることになります。これでは、藩の体面にさしさわりがあるのです。