ペンケ沢の思わぬ敗退がありましたが、シャクシャイン軍はヨイチ(余市)のハチロウエモンアイノの加勢に百万の味方をえた思いでした。
今後の作戦を練りますが正面から柵を突破するのは無理があります。
国縫川の上流から大木を流し、大木にとりついて対岸の崖をよじのぼって夜襲をかけましたが、柵はやぶれませんでした。

この国縫で松前藩と対して一月が経ちました。
夏も過ぎ、睨みあいを続けていましたが情勢は変化していきます。
食料が底をつきはじめ、補給がままならなくなってきました。
一方、松前側は東北地方北部の各藩は武器・食料などを送り、津軽藩に至っては出兵の準備ができていました。現地では金堀りや漁師・町人など500人の補強があり、更に船を使っての兵糧の補給も万全でした。
シャクシャイン側は若干の火縄銃を持ってはいましたが、国縫の戦いには持ってきていませんでした。

長引けば不利になるばかり、いよいよ決戦の時がきました。
シャクシャイン軍団は国縫川の河口から12キロ付近に結集し始めました。
両岸が狭まっているこの地点なら、大木を渡して橋にすることが可能でした。
矢も十分にとどく距離です。トドマツの大木がきられ、枝がはらわれ、橋は3本のトドマツの大木によってかけられました。しかし、松前軍の抵抗はありませんでした。

2つの中隊と5つの小隊を国縫川の手前に留まらせ、すべての隊を対岸に渡らせました。松前軍の4キロほど手前で、300人あまりの遊撃隊と小競り合いになりましたが、本格的な戦闘にはなりませんでした。
大半がアイコウインの手の者ので和人は数十人に過ぎなく、陣にむかって逃げていきました。攻撃本隊は、矢をあびせながら追走します。

松前方の遊撃隊は柵内に逃げ込み、ただちに柵はとじられ、二重の柵の内側から銃声がいっせいにとどろきました。遊撃隊はおとりだったのです。
最初の射撃で100人以上が倒され、先陣を切った隊の犠牲が特にひどい痛手を受けました。伝令は後詰の軍に伝えられます。

夜襲しかない。
後詰の隊を本隊と合流させ、柵を包囲する。
夜襲は5夜にわたって繰り返しひろげられましたが、守りは固く決定的な攻撃を与えることはできませんでした。
死者は日を追って増していくばかりで、食料も矢も、底をついてきました。

7月30日の深夜、いよいよ総攻撃をかけます。
いまや千数百人となった全軍あげての攻撃で、第一の柵はやぶりましたが、松前藩の反撃もすさまじく、鉄砲の威力にものをいわせて、二重めの柵を守り抜きました。

シャクシャイン軍は退却を命じます。
しかし、その退路にアイコウインの配下の新手が待ち受けており、文字通り、血路を開いての退却でした。
シャクシャイン軍は2000人近い男たちを失い国縫から敗退しました。

シベチャリ(静内)にもどって、東(メナシ)の本拠地、トカプチ(十勝)やクスリ(釧路)から、勇者を募り、今回の数倍の大勢力でまきかえす。
ところが、そこに意外な知らせがもたらされます。松前方が国縫から追撃に出たというのです。

アイヌの人たちが走ったと思われる付近の、黒松内町から寿都町付近の現代版道路を車で走ってみました。アイヌの人たちは太平洋から日本海の最短コースを利用していたと思います。
現在、北海道ですすめられている余市からの高速道路は、この道につながると思われます。