松前藩主三代目 松前氏広(うじひろ)  
1641年 – 1648年 在位7年 享年27歳

元和8年(1622年)、2代藩主・松前公広の次男として蝦夷福山館にて誕生。
兄・兼広が早世したために世継となり、寛永15年(1638年)に徳川家光に御目見した。
寛永18年(1641年)、父・公広の死去により跡を継ぐ。

ヘナウケの蜂起

氏広時代は7年と短い在位でしたが、松前藩最初の試練が待ち受けていました。

寛永20年(1643年)、島小牧(現在の島牧郡島牧村)のアイヌ首長ヘナウケが松前藩に対して蜂起したのです。
この一帯は、瀬棚内チャシの存在で知られるアイヌの大交易地でした。
そこへ和人の商場が設置され、付近の川での砂金採取でゴールドラッシュが起こり川が汚れて鮭が上らなくなりました。
アイヌの土地で砂金採取に際しては、首長に対価を払うならわしがありました。しかし、この事でもなにがしかの不満が募ったのかもしれません。
更に、寛永17年(1640年)の駒ヶ岳噴火でこの地域のアイヌの生活に大打撃を与えていました。

松前藩から佐藤権左衛門・新井田権之助・厚谷平蔵らが派遣され、両勢力はセタナイ(現せたな町)で交戦となり征し佐藤権左衛門らは帰還します。(上級藩士の一人が戦死)
その後、松前氏の一族にあたる蠣崎利広がセタナイに赴いて、和睦成立という説と利広に討たれたの説があります。このヘナウケの蜂起についての史料は「福山秘府」程度のため、実態はあきらかになっていません。

慶安元年(1648年)8月25日、27歳で江戸藩邸において死去。
跡を長男・高広が継ぎます。