松前藩の財政の柱を「鷹」「砂金」「檜」と大まかに書いてきましたが、松前藩主を通して蝦夷の時代を見てみたいと思います。徳川幕府と同じく松前藩主も15代で終わります。
アイヌ民族最大の蜂起・シャクシャインの戦いがはじまる寛文9年(1669年)の5代藩主松前 矩広( のりひろ)までに何が起きていたのかです。
この戦いの時、江戸幕府は徳川4代将軍家綱の時代でした。

松前藩主二代目 松前公広(きんひろ・きみひろ) 1617-1641

初代松前慶広の長男盛広の長男として誕生。父・盛広が早世したため慶広の世子となり、1616年(元和2年)に祖父・慶広が死去したため1617年(元和2年)に19歳で二代目となりました。(徳川幕府は秀忠・家光の時代を生きます)

対外政策に重点を置いた慶広に対し,公広は専ら内政に取り組み、城下町の建設、金山の開発、和人地の確定と商場知行制の実施など松前藩体制の基礎となる事業を行います。

元和6年(1620年)、福山館の城下町を整備します。
寛永10年(1633年)の幕府巡見使を契機に、寛永12年(1635年)村上掃部左衛門に領内の地図を作らせました。
商場を知行として家臣に分与する商場知行により家臣団を確立し、財政においては金山奉行を設置し砂金場の開発と採取にあたらせ、近江(おうみ)商人の受け入れなど藩財政の確立につとめます。
ところが、寛永14年(1637年)火事のために福山館が焼失してしまいます。更に、自身も火傷し、その政策は挫折してしまいました。

「松前は日本ではない」という松前公広の時代には多くのキリシタンが金山労働者として移り住んでいます。しかし、1633年に幕府巡検使を受け入れ、やがてキリシタンも禁止されました。
寛永16年(1639年)、幕府のキリシタン取締りの命により、キリシタン106名を処刑。

寛永18年(1641年)7月8日に死去。享年44。藩主歴24年
辞世は「来し道も 帰る道にも ただひとり のこる姿は 草の葉の露」。
道半ばだったのでしょう。

家督は次男・氏広が継ぎます。

江戸時代のままの伽藍が現存する龍雲院

龍雲院は曹洞宗の寺で、寛永2年(1625年)の創建。
公広が福山館の城下町を整備した後に建てられた寺。松前に現存する本堂建築では最古のものです。箱館戦争を免れ、江戸時代のままの伽藍(がらん)を残しています。(国の重要文化財)