ハエクル(オニビシ方)のアイヌは、松前藩に武器の援助を要請しますが、藩はアイヌ内部の問題として拒否します。オニビシが亡くなって一年目、オニビシの姉婿にあたるウタフが再度武器援助の要請に訪れますが拒否され、帰途関所近くの野田追(現在の八雲町)で疱瘡の病で死亡してしまいました。
このウタフの死去の報は、アイヌ人たちに松前藩による毒殺だとして伝えられたのです。この誤報を契機に、両集団の紛争は、全く新たな方向に展開されることになりました。

シャクシャインはこの機をとらえ、敵対していたオニビシの相談相手であった砂金掘りの文四郎(和人)らの後押しを得て、東西蝦夷地のアイヌ首長に使者を送り蜂起に立ち上がるべく檄を飛ばします。

「アイヌ同士が皆それぞれ手を結び、松前からの商船を襲撃すべし、(中略)ウタフが毒殺されたので、松前藩はお互いの敵である。一致団結して、松前から来る船を襲撃し、その後は松前を攻撃してウタフの仇を討とう。」現代訳を簡略

事態はアイヌ内部の漁猟圏争いではなく、全アイヌ民族対松前藩=和人という、民族の興亡をかけた戦争に発展したのです。

背景には「オムシャ」がありました

アイヌの交易は当初は松前に参勤する形式が多かったのです。
上級家臣の場所知行の蝦夷地拡大にともない、藩士が船を仕立てて場所にでかける「オムシャ」が多くなりました。更に、オムシャ以外での交易はなくなりました。
こうなると、アイヌの人たちは条件の良い商人との直接取引はできません。
(オムシャとは、現地に出張し儀式を行うもので、アイヌを集めて条令を伝え、酒や食料・衣類などを与え交易をすることです) 
知行主は交易の利潤を確保するために、アイヌ勘定などと無知につけこんだ不正交易が多くなってきたのです。
こうして、生活できないぎりぎりの状況に追い込まれていたアイヌは、シャクシャインの激に一斉に蜂起しました。

写真は北海道博物館の展示品です