釧路町の歴史は4つの村が重なり合って誕生した町です。釧路市とは違いますので観光を考える場合には注意が必要です。
大平洋に面した昆布森村・跡永賀村(あとえが)・仙鳳趾村(せんぽうし)に、現在の釧路市北東部が大正9年に分村し釧路村となり、これら4村が時代をずらして昭和30年に釧路村にまとまりました。町制施行は昭和55年のことです。

北太平洋シーサイドライン

沿岸地域は蝦夷の時代から昆布の産出地帯であり、「クスリ場所」として栄えていました。明治3年に佐賀藩の佐野孫右衛門が、秋田、青森から174戸(637人)の漁民を釧路村(現在の釧路市)、昆布森村、跡永賀村、仙鳳趾村(せんぽうし)に移住させ、家屋や漁船を給し漁業に従事させました。

十勝の広尾町から根室市のノサップ岬まで、321㎞の海岸線を北太平洋シーサイドラインといいます。その中でも又飯時から仙鳳趾村までの40㎞が釧路町となります。雄大なカーブを描く美しい海岸線や奇岩など、難読地名も多く、特異な景観が続きます。
和人の入植がはじまると海岸部だけでなく、山間部にも移住者が定着していきます。明治23年には釧路の畜産起源ともいえる山県牧場が開設し、馬などの生産も始まりました。
明治25年に仙鳳趾で炭山が開坑されて以来、別保地区を中心に大小14の炭坑が掘られ、釧路炭田の一翼となり、大規模な製紙工場も稼働し、鉱工業も次第に発展していきました。
石炭採掘は昭和初期の軍需景気でピークに達し出炭量とともに人口も急増しました。しかし、1940~50年代にかけて閉山が相次ぎ、人口も落ち込んでいきました。(1949年閉鎖)

道路を渡る鶴

その後、釧路市に隣接する地の利からベッドタウンとして人口が急増、とうとう1977年(昭和52年)に1万人を突破し、2019年には更に倍の19,626人 となっています。
まちの北西部は「釧路湿原国立公園」、南東部は「厚岸道立自然公園」に指定され、釧路町の市街化地域は、区域の50分の1ほどしかなく、町の面積の4分の3が森林地域となっています。世界的に貴重な釧路湿原と青く広がる太平洋を持つ豊かな自然に恵まれた町です。

釧路川は屈斜路湖に源を発し、日本最大の湿原である釧路湿原の中に入ります。釧路郡釧路町の岩保木地点からは、人工河川である「新釧路川」となり、釧路市釧路港の東港区と西港区の間から太平洋に注いでいます。
高低差が少ないため一級河川には珍しく釧路川本流にはダムが設置されていません。夏季には全国からカヌーの愛好者が川下りのために訪れます。カヌーポイントはいくつかありますが、細岡付近の湿原地帯、塘路付近、屈斜路湖側の源流部分などです。