間宮林蔵(1780~1844)は江戸後期の北方探検家。

間宮林蔵の銅像は宗谷岬に建てられています。
銅像を良く見ると「栽付袴に羽織、足袋、二本差しと、肩には海上計測用の“縄索”をかけています」
間宮が測量した資料を伊能忠敬の弟子に渡して蝦夷の地図が完成しました。

間宮林蔵は筑波郡上平柳村(現在の伊奈町)に農民の子として生まれました。
1799年(寛政11)、20才になると村上島之允の従者として初めて蝦夷地に渡ります。
翌年、函館において伊能忠敬に弟子入りし、測量術を学びました。
1803年(享和3)東蝦夷地、南千島を測量。
1808年(文化5)には松田伝十郎とともに樺太を探検します。
樺太が離島であることをはじめて確かめたことにより、間宮林蔵と言う名前は不滅となります。
樺太と大陸の間の狭い海峡をシーボルトが間宮海峡と名づけたため、現在も地図に名前が残ることになりました。