滝本金蔵 3

明治に入り、幌別役所より湯守であることを許可され、登別村に旅人宿を開きます。明治5年には室蘭と札幌を結ぶ道路が開設され、これまでよりも人で賑わいました。

金蔵は里に漁場を開き、温泉開発の資金を得て明治14年、私費で温泉と里を結ぶ道路(紅葉谷の上を通る新道)を開削します。

明治21年に平屋の一部を二階建てに改築しこれまでは外湯だけであったのを、別に湯室を建て増して内湯を設けます。「湯元の滝本」の始まりでした。

また、全額私費を投じ必死の思いで開通を願った「馬車道」開通は豪雨出水や脳溢血で半身不随となり、戸板に乗り担がせて道路工事の指導をしたと伝わります。この道が苦難を重ねながら明治24年に完成します。
7キロのこの道は、2千万円(4千万円相当)。
温泉への山道を走る4人乗りの客馬車はハイカラ馬車と呼ばれ、ユーモア溢れる金蔵により御者は豆腐屋用の愛らしいラッパを吹かせて客馬車を走らせていました。

この事がたちまち温泉の名物となり、当時の落語家である橘円太郎が話の中に取り上げて人気を集めたことから、円太郎馬車とも呼ばれるようになりました。

 政府はこの美談を讃えて、明治24年藍綬褒章を下賜しました。つづく