るすつ村名の由来はアイヌ語のル・スツ(道が山のふもとにある)という意味。

留寿都村の開基は明治4年。東本願寺が行った有珠郡へ至る新道開削にともなって三戸移住したのがはじまりでした。
留寿都村はかつて属していたのは真狩村(現ニセコ・真狩・留寿都・喜茂別)で最も早く定住した和人は旧伊達藩士(亘理領)の阿部喜左衛門ら3戸で、彼らが現喜茂別字相川に入地したのは明治4年のことでした。

明治19年、植民区画が行われ、二ノ原、ポロベツに移住しています。
入植者の中には向洞爺の移民が相当数いました。

パラグライダー

明治20年、橋口文蔵が入り、22歳のときにアメリカへ渡り農学を学んだ彼は米国式大農場経営を目指し、機械も全てサンフランシスコより輸入し 模範農場を夢見ました。労働力不足や交通の不便さなどから事業を断念、明治24年に橋口文蔵の夢と共に加藤泰秋が農場を譲り受けます。
橋口文蔵、加藤泰秋は大農場経営の構想(小作ではなく直営式)を実現することはできませんでしたが、留寿都農業に大きな足跡を残し、留寿都村に鍬を入れた最初の人でした。加藤は明治34年に小作制に転じ、昭和16年に農場開放しています。
明治23年に着手し4年後に完成した虻田~留寿都~中山峠~札幌(現国道230号)が、廃道同然だった本願寺道路(現国道453号)にとって代わり、それによって農場の開設や団体移住が促進されました。
羊蹄山麓の開発が進み明治37年に真狩駅(現ニセコ駅)も開業します。
大正14年に現在の留寿都村が誕生。
村の北側には羊蹄山がそびえ、山麓を取り巻く北東の喜茂別町、北西の真狩村、南の胆振管内の洞爺湖町(旧:洞爺村)、伊達市(旧:大滝村)と境界を接 しています。

母思像(赤い靴公園)

母思像(赤い靴公園)
童謡「赤い靴」

明治38年、幼い娘を抱いた未婚の母が函館にたどり着いたことに始まります。母は岩崎かよ、娘はきみ。
青森県出身の鈴木志郎が岩崎かよと巡り会い結婚。
留寿都村八の原の厳しい開拓地へ幼な児を連れて行けなく、米人宣教師夫妻に預け、その後母と子は二度と会うことがありませんでした。
その後、夫妻は札幌に出、志郎は北鳴新報に入社し野口雨情一家と共に一つ屋根の下で暮らしました。
かよは娘が宣教師と一緒にアメリカに渡ったと思い込み、雨情夫人に境遇を語ったことが雨情の作詞につながりました。母親の像は「ルスツふるさと公園」にあります。

ルスツリゾート

観光にも力を入れており昭和58年ルスツリゾートが開園しました。
遊園地をはじめゴルフ場、スキー場も3つの山で全37コースを備え、高層ホテルも建設され一大リゾート地区を形成しています。