ホタテ

松浦武四郎宿営の地

猿払のホタテは1856年松浦武四郎の「武四郎廻浦日記」のころから記録されています。
この村のホタテ漁は他と比較にならないくらい大きく、海の条件が繁殖に適していました。

1882年(明治22年)藤山要吉が入地し漁業を営み、明治24年頃から内灘漁民が入漁していたとされています。

大正期に入ると資源保護の立場から禁漁案が起こり、漁民との間で確執が生まれました。昭和10年に石川県漁民の禁漁が実施され、稚内漁業組合名義で着漁するという事態も起きています。

やがて資源枯渇が進み、昭和39年以降全面禁漁となり、昭和46年から稚貝の放流を行うことになります。稚貝放流から資源回復に至る経緯については

北の美術館「猿払村」2017年12月 通算47号 を見てください。
詳しく書いています。

1900年(明治33年)、苗太呂知来別原野に植民区画が設定され入植者が入り、大正9年には米の試作も行われましたが、寒冷地のため適さず、ジャガイモ栽培の奨励を行っています。

戦後は酪農が本格化

乳牛感謝の碑

戦時中には浅茅野第二飛行場だった地が払い下げられ、村営牧場となり酪農が進展しました。

昭和44年に「乳牛感謝の碑」が立てられており、酪農主体の農業は乳牛を主に肉牛も猿払ビーフとしても出荷しています。

明治24年、道庁の技師石川が炭田を発見。昭和2年に宗谷無煙炭鉱として操業し、他に和平炭鉱等も稼働。ピーク時には人口1万人近くまで増加しましたが、いずれも閉山しています。

インディギルカ号の座礁

インディギルカ号座礁の碑

昭和14年、猿払の沖合で旧ソ連船インディギルカ号が吹雪の中座礁。

村民総出の救助にもかかわらず700人以上の犠牲者を出す惨事となりました。
さるふつ公園に慰霊碑が立てられています。