初年度の成績が悪く方針転換
 
50町歩を耕す予定が僅かに18町歩。

鈴木社長は第2次移民募集を開始し、とくに開拓地管理人に適する人物を探し求めます。神戸で製乳業を経営し、牧畜知識を持つ同郷の「澤茂吉」を家族ともども説得し赤心社に入社させました。

前年入植した幌別川流域(現在の浦河町市街地より東)を第一部とし、鈴木が選定した元浦川流域(浦河町市街地より西)を第二部として、澤茂吉を部長に任命しましす。澤は第2次募集で得た、向井兄弟を含む80余人を引率し神戸を出発し5月10日に浦河に到着。
この年新しく開拓されたのは40町歩、播種反別58町歩余に及びました。

写真は澤茂吉

赤心社の方針を一部変更

明治16年3月の株主総会で、副社長加藤清徳の監督指導の失敗で人望を失い辞任し、澤茂吉が後任に選ばれました。
以後、澤は幌別川流域と元浦川流域の両開拓地を管理することになります。
しかし、この年は暴風雪による家屋の損害がひどく、更にあぶら虫の異常発生により、粟・稗・黍などは損害を受けます。10月には豪雨の襲来で川は至るところで氾濫、田畑は冠水、家屋は床上浸水などの損害を受けました。
被害の連続で移民の意気はまったく阻そうし、飢餓に迫られましたが、澤は根気よく彼等を励まします。
そのため、50町歩に近い新墾地を開き、加えて百町歩あまりに種まきし、夏季以降のたび重なる災害にもかかわらず2000余円と予想外の収穫を上げることができました。