国道36号線を豊平川を渡り美園を過ぎると、少し登り坂になります。

昔は今よりも更に急な坂道でした。
明治のころ坂道を登るとそこは、道内最大の軍隊、陸軍歩兵第25連隊が置かれていた「月寒」の町でした。
左の写真は、陸軍本部で今は郷土資料館となりボランティアで管理保存されています。

明治39年、この地に「大原屋本間商店」を開店し、連隊に日用品をはじめさまざまな物資を納めはじめます。店を創業したのは、本間与三郎若干17歳の時。

(新潟県東蒲原郡大原村から北海道に渡ってきました)
 
明治7年、東京芝日陰町の木村安兵衛が酒種酵母による「桜あんぱん」の製造に成功。翌年には、明治天皇にも献上され、銀座の名物として大ヒット。
これを噂で伝え聞いたのが、月寒の連隊内で菓子を販売していた仙台出身の大沼甚三郎。「あんぱん」とやらいうものを自分も作ってみようと、あれやこれや想像しながら、月餅のようなまんじゅうを作り上げました。
その製法を甚三郎から教わった本間与三郎は、その「あんぱん」を妻とともに一つ一つ手作りし、レンガの「トンネル窯」に炭を入れ、その上に鉄板をのせて下火と横火で焼き上げ、連隊に運んだ。この、ひとつ一銭の、黒砂糖でじっくりと煉ったこしあんがずっしり入った大ぶりのお菓子は、甘いものが貴重だった時代に、兵隊たちに大人気となった。
 
明治44年、第25連隊と住民が協力して月寒から平岸に抜ける道路を造る際、豊平町が軍に感謝を込めて毎日ひとりに5個のあんぱんを提供。あんぱんを頬ばりながら造られた道路は愛称を込めて「アンパン道路」と呼ばれ、昭和62年には記念碑も建てられました。
 
 当時、連隊正門前の通りには7店ものあんぱん屋が軒を並べていたが、戦中戦後の混乱の中で次々と姿を消し、昭和22年、月寒地区だけでなく札幌の名物になっていた「月寒あんぱん」の製造を再開したのは「ほんま」ただ一軒だけ。
時代と共に月寒あんぱんも変化し、甘味を抑えて当時より大きさも一回り小さくなったが、上質な原料と丹念な製法は今も変わらず現役で営業しています。