大友堀跡

明治維新の10年前(1858)、幕府の開拓政策に沿って現在の道南地区、木古内町と七飯町に開墾で来た人がおります。現在の小田原市出身の幕臣「大友亀太郎」で、二宮尊徳の門下生でした。
田畑の土地開発と48戸の農家の入植を8年間かけて成し遂げます。

その後「蝦夷地開拓掛」に任命され、石狩国札幌郡(現在の札幌市東区)の開拓に入ります。当時の札幌は原生林そのままで、農民入植地として適切な土地を尊徳の教えに従い測量を交えて探しました。
その結果フシコサッポロ川(現・伏古川)の上流周辺地域を、官による援助や保護のもとに入植させる農場を指す「御手作場(おてさくば)」として定めました。

道路や橋などの建設工事に着手。当時最新鋭の技術を駆使して整備が行われ、この工事の中に、およそ4キロメートルに渡る用排水路の建設計画が含まれていました。これが、後に創成川の土台となる「大友堀」でした。

「大友堀」は現在のススキノ近くから水路を造り、伏古川まで通じるよう指導しました。未開拓の土地に用排水路が設けられたことで、街づくりの起点となり現在もこの大友堀は、創成川の一部分として残されています。
河川や肥沃な土地に恵まれたこの一帯は、近年まで「札幌黄」を生み出した玉葱耕作など、新しい形態の農業が行われ「札幌元村」として定められました。

北海道の開墾開拓に日本人のプロが派遣された第一号だったのでしょう。
しかし、明治維新後、体制が変わった政府と意見の相違があったことなどで明治
3年に亀太郎は小田原市へと帰省しました。

大友亀太郎の役宅場所が後に「札幌村郷土記念館」として札幌市より史跡の指定を受けました。この場所が札幌市北区北13条東16丁目にあり、資料を含めて展示されております。(さっぽろ・ふるさと文化百選)

札幌村郷土記念館では「大友堀」の経路を含めて、当時の札幌の地形など興味深い解説が聞けます。