開拓者集団上陸記念碑
 

日高管内の新ひだか町静内に映画「北の零年」や小説・ドラマで知られる「お登勢」の稲田家臣団が上陸した場所に碑が建てられています。
「稲田騒動」とは、江戸時代の徳島藩は四国の本家と淡路島の分家という立場でした。それが新政府の版籍奉還により、徳島藩(本家)蜂須賀藩主と家来、それに淡路を統括していた筆頭家老だけが士族として家禄を支給されることになりました。

幕末の政局の中で、徳島藩の蜂須賀藩主は倒幕に踏みきれませんでしたが、淡路の稲田家は戊辰戦争の東征軍に加わるなど本藩とは反対の独自行動をとり、その活躍は官軍でも高く評価されていました。
稲田家臣たちは分藩独立運動を展開しますが、政府は判決を蜂須賀藩主に預けます。結果、徳島藩の怒りを買い1870年(明治三年)明治政府が同家臣団に北海道開拓を命じました。

静内上陸

家老の稲田邦稙も家臣と共に未開地の開拓に従事しました。
移住は1871年(明治4年)4月から始まりましたが、8月の第2陣を乗せた薩州平運丸が和歌山沖の周参見浦(すさみうら)で岩に乗り上げ沈没、水死者83人を出す惨事が起こりました。

第一陣は明治4年5月2日に静内沖に到着。稲田家旧家臣546人が静内に上陸。
これが現在の静内開拓のはじまりとなります。

蝦夷の時代、この静内地区はアイヌ民族の二大勢力が静内川の上流・下流で対峙していた地域です。
稲田家が落ち着いた場所は静内川を河口から上ったところにあったシャチ跡でした。冬を越える前に保管していた家財道具一式が燃えるなど、多難な苦労をしたことで知られています。

稲田家と家臣の物語は映画化され、吉永小百合主演の『北の零年』として2005年に公開されました。しかし、脚本は資料提出をした郷土研究家も嘆くほどの時代錯誤があったといいます。