国道235号を静内市街地を過ぎて静内川を渡ると、直ぐに左に入る道があります。小高い丘を登っていくとシャクシャインの銅像が建つ真歌公園があります。
ここにはアイヌ民族資料館もあり、民族の漁撈具、編み物、着物、儀礼用具などが展示されています。更に、進むと「シャクシャイン記念館」があり、そうして、公園の突き当りの小さな橋を渡るとシャクシャイン城跡が碑とともに保存されています。

銅像を作り直しました

シャクシャインの銅像は、2019年に新しく作り直されました。

同じ公園にあったのですが、傷みも激しく別の場所に移されたといいます。
ところが、像そのもののイメージも変わっています。良くみていただきたいと思います。

以前のは天に突き上げる激を飛ばしたイメージですが、作り直したのは両手を前に優しい像になっています。
これはどうしたことなのでしょう。

アイヌ民族最大の蜂起

「シャクシャインの戦い」とは、徳川家綱(四代目将軍)時代(1669年)に、蝦夷地で起きたアイヌ民族と松前藩との闘いのことです。当時、現在の静内川の漁猟圏を巡りアイヌの二大部族抗争が起きていました。

松前藩はこの抗争をアイヌ民族の支配拡大に利用しようとします。この陰謀を察したシブチャリ(静内)・アイヌ首長シャクシャインは、他のアイヌ民族たちにも呼びかけ蜂起しました。
この背景には部族抗争だけでなく、松前藩は1664年に交易取引条件を一方的に変更し、3倍の値上げを行いました。
『米2斗(約30kg)=干鮭100本から米7升(約10.5kg)=干鮭100本と変更』更に、取引に応じなければ子どもを人質にと脅してきたのです。

松前藩の圧政に耐えかねていた事もあり、対立していた部族はシャクシャインを中心にまとまり、1669年6月、2000人もの軍勢に膨れあがり一斉蜂起が始まりました。
この戦いで約390人の和人が犠牲となりましたが、鉄砲を持つ松前藩が優位となりアイヌ側は償いの宝物を提出すること、シャクシャインたちは助命されることを条件に和議となりました。
しかし、これは松前藩特有の騙し討ちで、和議の席で酒に酔ったシャクシャインらを殺害。アイヌの砦も攻め落とされ、アイヌ側の敗北で幕を閉じました。
シャクシャインの戦いを機に、松前藩は蝦夷地の交易において絶対的主導権を握ることになります。

シャクシャインの戦いは、別のブログ「蝦夷の時代」で詳しく説明します。